〇 「離見の見」の中の「離見の見」より引用と抜粋(1971年)
『 私は謡曲とか能とかはあまり知りませんが、今日の能は、観阿弥(かんあみ)とか世阿弥(ぜあみ)という人がつくりだしたわけですね。
とくに世阿弥という人は、非常にすぐれた思想家、あるいは芸術哲学者でもあるといっていいかと思います。
世阿弥にはいろいろ書いたものがありまして、私もそんなに詳しく調べたわけではありませんけれども、この人が五十過ぎてからでしょうか、ずいぶん長く生きた人でありますけれども、ずっと年輩になってから、最後に到達した境地かどうかわかりませんが、最後の境地に近いわけでありましょうが、「離見の見」という有名な言葉があります。
皆さんの中には、私よりよく知っておられる方があるかも知れませんが、これはどういうことであるかと申しますと、世阿弥という人は演技者ですね。
自分が能をやるわけですね。
能の名人でありまして、能舞台で自分が演技するわけです。
ある演技者の能がよいとか悪いとか言う。
これは見物が見て言うわけです。
見る人が見てよいと思う能は、これはよい能ですね。
これは明白です。
見る場所は見物席ですね。
見物席から見て、これはいい能であると思うかどうか、舞台で実際演技している自分にはわからんはずやときめ込んだら、これはおかしいわけですね。
はじめはただ一心にやっているというけれども、実はこれは人が見たらどういうふうになっているだろうかという意識は、むろんあるわけです。
自分は演技者であるけれども、自分は能をやっているのであるけれども、やりながら、これを見るところから見たならば、これは完璧な能になっているかどうかということが自分にわかる、見るのと見られるのが一体化しなければいかん、そういう意味合いだろうと思います。
(中 略)
人間というものは、思いのほか、始めから「離見の見」的なものなんですね。
(中 略)
人間は、またあとでお話ししたいと思いますが、非常に小さいときから、自分というものをある程度意識している。
それは大きくなってからの、はっきりした自意識ではないのでありますけれども、自分というものをある程度知っている。
自分を知っているということは、自分を外から見ているということですね。
自分が何であるかということを考える。
それは非常に内向的のように見えますが、内向だけでなく、同時に自分を外から見る、あるいは自分を外に出して見るということを必ずやっているわけですね。
これは極めてあたりまえのことでありますけれども、普通はそういうふうにいわないのであります。
普通は、心か物か、内向か外向か、どちらか一方に徹せよということが書いてあります。
どっちかにかたよっていまして、別の見方を無視してしまってる場合が多い。
ですから、私は、大抵の思想書とか、宗教、哲学の本に書いてあることは、その点で非常に具合が悪いと思うのであります。
それはここで立ち入る必要はありませんけれども、、、、、。
人間は本来内・外があって、内へも向かっているし、外へも向かっている。
外がなくてただ内一方、そんなことはないですね。
外一方で内がなければ、これまた一向に人間らしくない。
しかし、どの時代も、大体として見ますと、どっちかにかたよってしまうんですね。
片一方だけしか考えないというのが普通で、どっちも具合が悪いのですが、近ごろはどちらかといいますと、外向きになりすぎているんですね。
外のことばかり考える。 』
では、最後の3つ目のご紹介もここで終了です!
そこで、最近の風潮を、あくまで私個人の視点から眺めてみますと、