こんにちは!
レイキ ヒーラー&ヒプノセラピストの瀬川です。

 

今年に入りまして、幾度も新型コロナウイルスのテーマを取り上げ続けてきました状況もあり、このTOPICSでの今年の目標!?である「メタファー(物語や比喩)の多用(活用)」が少し手薄になりつつある頃合いとも感じておりましたので、今回は「湯川秀樹 氏からのメッセージ!? ~「加速」&「内面(側)と外面(側)」~」というテーマをお届け致します!
とは言いましても、科学分野という訳ではありませんので、私のように理系が不得意な方でも、ちゃんと読み進める事が出来ますので、どうぞご安心下さい(笑)

 

ところで、先日から日本国内の各携帯(通信)会社においても「5G」のサービスが始まったとのニュースが流れております。
若い世代の方々におかれましては「5G」とは何ぞや?というのは釈迦に説法かと思いますが、私のようにパソコンや機器類に疎いケースでは、「5G」と言ってもよくは分からないという方もいらっしゃるかと思いますので、まず、ごくごくシンプルにご紹介致します。
それは、

 

5Gを活用すると・・・情報(データ)に・・・高速かつ大容量でアクセス出来る

というものですが、表現を変えますと、

私達の元に・・・大容量の情報(データ)が・・・高速でもたらされる

 

とも言えます(笑)
そして、この「5G」の活用におきましては、遠隔医療や車の自動運転などの分野での活躍が期待されているとの事でもあります。
では、「5G」につきましては、この程度の理解をして頂ければ充分ですので、先に進めて参ります!

 

そこで、今回のテーマでもある湯川秀樹 氏のお名前は、多くの方が聞いた事があろうかと思います。
湯川秀樹 氏(1907年~1981年)は科学者(物理学者)であり、1949年に日本人初のノーベル賞(物理学賞)を受賞した事で記憶している方も多いかと思います。

ところで、2020年2月15日のTOPICS『 引っ越しとグラウンディング 』でも少し触れておりますが、私の父が2月初旬にケアハウスに入居したのに伴い、2月中旬に私は実家に引っ越しをしました。
この際なので自分の断捨離も行いながら、父の所蔵していた雑誌類なども色々と整理をしておりました。

そして、そのように父の雑誌類を整理していく中で、自分の中で面白そうだなぁと感じた書籍は手元に残して、順次、気の向くままに読んでみようと感じながら進めておりました。
そして、その中の1冊に、今回の湯川秀樹 氏の書籍があり、つい先日まで私も読み進めていた結果、今回のTOPICSへと繋がっていきました(笑)

 

そして、「今でこそ」このTOPICSにおいても量子力学などの科学分野も取り入れてご紹介してきておりますが、SF映画はともかくと致しまして、私は30代中盤までは、科学の分野などにほとんど興味も関心もありませんでしたし、何より、先ほどコメント致しましたように、私は理系が大不得意!なので、そもそも理解が出来なかった事と思います。
勿論、「今でも」充分に理解出来ている訳では決してありませんが(笑)

ただ、やはり、カウンセリングやヒプノセラピー(催眠療法)やレイキなどのヒーリングを学び、実践をしていく中では、様々な分野の視点も取り入れざるを得ない、、、と言いますより、

 

自然と・・・

様々な分野同士で・・・

「繋がり」と「重なり」が現れてくる(気づけてくる)

 

という事が(頻繁に)起こってきた事もあり、更に、そのような視点がクライアントの皆様におきましても役立つ事を知り(理解し)、また、それが楽しくなってきたので、今に至っているという感じかもしれません(笑)
そして、このように、少なくとも30代中盤頃の私においては、

 

(一般的な)科学(者)というものは・・・

理屈(理論)と数字やデータばっかりを重視し・・・

人の心などには無関心の分野(人達)

 

との、「今でこそ」それを振り返ると、穴があったら入りたい!!!くらいの心境ですが、

 

私は科学(という分野や携わる人々も含め)に・・・

偏見を持っていた!!!

 

というのが偽らざる事実です(苦笑)
勿論、ここには、理系が大不得意!という私自身の「内面(側)」におけるコンプレックスや自己憐憫などが要因となっていた部分もあります(笑)

と、前置きが長くなってしまいましたが、このように、今回お届けする湯川秀樹 氏からのテーマにおきましては、「以前(過去)の私」では到底「繋がる」事は出来ていないものでもありますし、また、そこに「重なり」を見つけ、人様にお届け出来るような視点は見つかっていないものでもありますが、

 

自分が変われば・・・

見える景色も変わる!!!

 

という面も含めまして、湯川秀樹 氏からのメッセージ!?という「メタファー」をご紹介しつつ、そこに少しだけ私なりの視点からの「問い掛け」なども「加味」して参ります!

ちなみに、このように以前(過去)の私であれば、他にも偏見の目で見ていた対象(や人々)も(それなりには)存在しておりますが、段々と、そこにも自分自身との「繋がり」と「重なり」を発見(気づく事が)出来るようにもなってきているとの自負?もある事により、今後も機会を捉えて色々とご紹介して参りますので、是非、皆さんは私を「反面教師」として大いに利用してみて下さい(笑)

 

では、ここからは『 自己発見 』(湯川秀樹、講談社)という書籍からの、湯川 氏の言葉(話し)を3つほど引用して参りますが、この本は「昭和54年8月15日第1刷発行」からのものです。
今回のテーマでもある「加速」&「内面(側)と外面(側)」を少し意識しながら読み進めてみて下さい!
そして、ここからの内容は、「今」から40数年程前に語られているものです、、、

 

〇 「庭の構図」の中の「スピードの限界」より引用と抜粋(1970年)

『 人間は快感を求め、不快感をなくそうと努力する。
  多くの人、特に若い人にとって、スピード感は快感の中の重要な一種になっている。
  自転車より自動車の方が好まれる理由の一つは、スピードがより大きい点にある。

  日常生活のテンポが、だんだん速くなってきたこと自体を進歩と考える人が多いのも、同じ理由からであろう。

 

  しかし人間は年がら年じゅう走りまわっているわけにはいかない。
  毎日、何時間かは寝なければならない。
  起きている時でも時々は休憩したり、思い切って動作のテンポを遅くしたくなる。

  能のように動きの少ない、動きの遅い芸能が今日まで残ったことは、そういう高度のバランス感と関係があるであろう。
  そういうことと関連して、私が前々から気にしていたのは、速さにも遅さにも限度があるはずだということである。
  速い方も遅い方も、ある限度を越すと不快感に変ってしまうのではないか。

 

  人間の生理的なリズムからあまり離れてしまうことは、危険であるばかりでなく、生の感覚より死の感覚に、より近くなるのではないか。
  そういう限度は、人間の生理にもとづく以上、昔も今も、あまり変らないのではないか。

  (中 略)

  現代のスピード狂的傾向は、やはり異常であり、生理的限界を越している、と考えるほかないであろう。 』

 

〇 「離見の見」の中の「今後の世界における創造とは何か」より引用と抜粋(1971年)

『 (建築家へ向けての講演で「空間」について述べた後に続き)
  それと、空間といいますと、たちまち時間ということが連想されるわけです。
  時間と空間と関係ないみたいですけれども、しかし、やはり時間という問題が最後にもう一つ出てくるわけです。

 

  時間というのは何か、時間もまた埋めら(れ)るべきものだという感覚を日本人は強くもっている。
  忙しいのがいい。

  つまり新幹線ができまして、東京まで行くのに三時間で行ける。
  日帰りできる。
  それだけ時間がもうかったと思うわけですね。

 

  いったい何がもうかったのか。
  私は思うのに、人間はだんだん損をしているんじゃないか。

  何を損しているか。
  つまり自分の時間を失っているんじゃないかと思いますね。

 

  私も人にいろいろ用事を頼まれて、日記帳を出して、そこの空白を埋めてゆく習性をもっているわけです。
  時間があいていたら、ああよろしい、あいてますからといって用事を引き受ける。
  それで今日は、こんなところへ出てきてえらい目にあっているわけですけれども、しかし、そう言いながらも、またいつがあいているかと聞かれて、いつどうするか日記帳に予定を書く。

  あとで、しまったと思うわけです。
  そうなるのも時間的空白はものすごく貴重なものであって、自分のためにぜひ置いておきたいという意識が強くないからですね。
  私など気が弱いですから、頼まれると、まずいことやと思いながら空白を埋める。

 

  しかし、時間的空白というものはたいへんだいじなものであって、人間の幸福というものにつながっているわけですね。
  もちろん空白ばかりというわけにいかん。
  そこに適当にやはりいろいろ用事もあって、人のためにもしている。

 

  しかし、そこにはまた空白もある。
  さっきの建築と同じことです。
  おそらく建築だって、そこへくれば、ひじょうに気持が落着いて、ぼやっとしている、たとえ二時間でも三時間でもぼーっとしている、時間的空白ですね。

  ぼやっとできるような建物はいいですね。
  なかへ入ってこまねずみのように走りまわらんならんような建物ばかりになるということは、不幸ですわね。 』

 

では、最初の二つはここで終了ですが、ここでの二つの話しは「加速」というテーマと関係しておりますが、

 

現在の「加速」という状況は・・・

あくまで(自分の)「外面(側)」のみで起こっている事であり・・・

逆に・・・

私達の「内面(側)」は・・・

「鈍化(どんか)」の一途を辿っている・・・

 

という風に私個人としては感じる所が強いですが、皆さんは如何でしょうか?
そして、「鈍化」というのは、文字通り「鈍(にぶ)る」と表現されるように、「無関心」に「繋がって」いき、終いには「無関心」に「重なって」いくものでもあります。

また、二つ目の引用文で湯川 氏が話していた『 もちろん空白ばかりというわけにいかん。そこに適当にやはりいろいろ用事もあって、人のためにもしている。 』の箇所は、時代が違えども、このTOPICSでも繰り返しお伝えしております、

 

「調和とバランス」と・・・

どこか・・・

「繋がって」・・・

「重なって」・・・

 

はおりませんでしょうか?
繰り返しですが、これらが語られていたのは、「今」から40数年ほど前の状況です、、、
では、最後の3つ目に進んで参ります!

 

〇 「離見の見」の中の「離見の見」より引用と抜粋(1971年)

『 私は謡曲とか能とかはあまり知りませんが、今日の能は、観阿弥(かんあみ)とか世阿弥(ぜあみ)という人がつくりだしたわけですね。
  とくに世阿弥という人は、非常にすぐれた思想家、あるいは芸術哲学者でもあるといっていいかと思います。

  世阿弥にはいろいろ書いたものがありまして、私もそんなに詳しく調べたわけではありませんけれども、この人が五十過ぎてからでしょうか、ずいぶん長く生きた人でありますけれども、ずっと年輩になってから、最後に到達した境地かどうかわかりませんが、最後の境地に近いわけでありましょうが、「離見の見」という有名な言葉があります。

 

  皆さんの中には、私よりよく知っておられる方があるかも知れませんが、これはどういうことであるかと申しますと、世阿弥という人は演技者ですね。
  自分が能をやるわけですね。
  能の名人でありまして、能舞台で自分が演技するわけです。

  ある演技者の能がよいとか悪いとか言う。
  これは見物が見て言うわけです。
  見る人が見てよいと思う能は、これはよい能ですね。
  これは明白です。

  見る場所は見物席ですね。
  見物席から見て、これはいい能であると思うかどうか、舞台で実際演技している自分にはわからんはずやときめ込んだら、これはおかしいわけですね。

 

  はじめはただ一心にやっているというけれども、実はこれは人が見たらどういうふうになっているだろうかという意識は、むろんあるわけです。

  自分は演技者であるけれども、自分は能をやっているのであるけれども、やりながら、これを見るところから見たならば、これは完璧な能になっているかどうかということが自分にわかる、見るのと見られるのが一体化しなければいかん、そういう意味合いだろうと思います。

  (中 略)

  人間というものは、思いのほか、始めから「離見の見」的なものなんですね。

  (中 略)

  人間は、またあとでお話ししたいと思いますが、非常に小さいときから、自分というものをある程度意識している。
  それは大きくなってからの、はっきりした自意識ではないのでありますけれども、自分というものをある程度知っている。

 

  自分を知っているということは、自分を外から見ているということですね。
  自分が何であるかということを考える。

  それは非常に内向的のように見えますが、内向だけでなく、同時に自分を外から見る、あるいは自分を外に出して見るということを必ずやっているわけですね。
  これは極めてあたりまえのことでありますけれども、普通はそういうふうにいわないのであります。

 

  普通は、心か物か、内向か外向か、どちらか一方に徹せよということが書いてあります。
  どっちかにかたよっていまして、別の見方を無視してしまってる場合が多い。
  ですから、私は、大抵の思想書とか、宗教、哲学の本に書いてあることは、その点で非常に具合が悪いと思うのであります。
  それはここで立ち入る必要はありませんけれども、、、、、。

 

  人間は本来内・外があって、内へも向かっているし、外へも向かっている。
  外がなくてただ内一方、そんなことはないですね。
  外一方で内がなければ、これまた一向に人間らしくない。

 

  しかし、どの時代も、大体として見ますと、どっちかにかたよってしまうんですね。
  片一方だけしか考えないというのが普通で、どっちも具合が悪いのですが、近ごろはどちらかといいますと、外向きになりすぎているんですね。
  外のことばかり考える。 』

 

では、最後の3つ目のご紹介もここで終了です!
そこで、最近の風潮を、あくまで私個人の視点から眺めてみますと、

 

自分だけ・・・自分だけ・・・自分だけ・・・

自分だけは・・・自分だけは・・・自分だけは・・・

 

というように、

 

自分の「内面(側)」に向かっているのではなく・・・

自分の「内に籠(こ)もって」しまい・・・

それでいて・・・

「外面(側)」にのみ・・・

「答えや正解(あるいは、救い)」を求めている・・・

 

という風に映っております。
そして、このTOPICSでも繰り返しお伝えしております、「(過度の)二者択一」に陥らないように、あるいは、「統合」というキーワード、、、
そして、これも更なる繰り返しですが、今回ご紹介した湯川 氏の言葉は、「今」から40数年程前の状況、そして、その先の「将来や未来(という「今、現在」)」を危惧してのものでもあります、、、

 

そして、今回のテーマにおきましても、やはり、皆さんお一人お一人が「自由に考える」素材としてのメタファーのお届けでもありますが、それに加え、最初にコメント致しました、私の中の「偏見」や「反面教師」という素材も「加味」されております(笑)

 

そして、皆さんにおかれましても、好きな人もいれば、嫌いな人もいらっしゃるでしょうし、私にもそれはあります(笑)
その事自体が悪いという訳でもありません。
ただ、「自戒」を込めて若かりし頃?の自分振り返ってみると、やはり、人への評価や見方という面において、例えとして極端に表現すると、

 

理系(人間)なのか・・・

文系(人間)なのか・・・

という「二者択一」で判断していた(部分もあった)

 

という面が(幾分かでも)あったのも、偽らざる私の姿でもありますし、

 

この極端な(両極に限定した)判断基準が・・・

私自身の「内面(側)」と「外面(側)」とを・・・

「分断(分離)」させていた

 

というのは、「今」では幾分か理解出来るようにもなってきたかもしれません(笑)
そして、詰まる所、

 

自分で築き上げた(創り出した)「分断(分離)」とは・・・

結局は・・・

自分自身を「閉じ込める(制限してしまう)」

 

という面に、「無意識」ながらも多大な影響を及ぼしていることも、最近では朧気(おぼろげ)ながらも、「意識化」出来るようになってきたかもしれません(笑)

そして、今回ご紹介致しました湯川 氏の書籍においても、実際に読んでみると、俳句や文学的な事が多々書かれていたり、また、講演などでの言葉遣い(言葉選び)なども、かなり心を込めて表現しているのも、私なりに感じ取れた所です。

「以前(過去)」の私であれば、、、「科学(者)や理系(人間)」という「偏見」で、、、今回のテーマや「気づき」は産まれていなかったのは間違いございません、、、(笑)
そして、これも詰まる所、「偏見」とは、「差別」と「繋がって」(いきやすくなり)、(デマや妄想などと)「重なって」(いきやすくなる)ということも、、、

 

今回も長くなってしまい申し訳ございませんが、私はヒプノセラピー(催眠療法)も行っておりますので、長くなったついでと言っては何ですが、湯川 氏が「潜在意識」について語っている場面もありましたので、最後に余談としてご紹介して締め括りとさせて頂きます!!!

 

〇 「離見の見」の中の「離見の見」より引用と抜粋(1971年)

『 今いった記憶とか理解というような問題ですが、人間というのは、自分が意識している以上に、なにか知能の進化とか進歩というものを知らん間にやっている。

  つまり、意識的にやっていることもあるけれども、無意識的な、潜在意識というか、そういうところの活動というものは、自分にもわからんから説明しにくいわけでありますけれども、これは非常にあるのだと思います。

 

  創造性の問題と潜在意識の問題は、非常に関係があるのであります。

 

  詳しく申しますと、時間がたりませんから、やめておきますけれども、たびたび引き合いに出します例は、アンリ・ポアンカレという大数学者の話です。
  この人が、数学のあるむつかしい定理を証明しようと思っていろいろ考えたけれども、どうしても解決できない。
  そこで一ヵ月か二ヵ月それを忘れてしまいまして、旅行に出たのです。

 

  旅行に出て、どこかで乗りものに ~ 十九世紀の終わりごろのことと思いますから、馬車でしょうね、馬車に乗ろうと思って、足を段にかけたときに、パッと解決法を思いついた。
  思いついて考えてみると、すらすらと問題は解けたということです。
  彼自身の体験です。

 

  そこで彼がつらつら思うのに、自分はその問題を一、二ヵ月すっかり忘れておった。
  自分では忘れておったけれども、多分自分の潜在意識なるものは大いに活動しておったのではないか。
  その潜在意識のなかである解決が思いつかれておった。
  そしてそれが、ある拍子にパッと意識に上ってきたのではなかろうか。

 

  こういうことを言っておるのであります。
  まことに卓見でありまして、私も賛成であります。

 

  さきほど停電して、ついて、きえて、という「たとえ話」を申しましたが、いまの話も、彼の場合にはいっぺんにパッとつきっぱなしになったように見えますけれども、その前にちょっとついて消えるという段階があったかも知れない。

  それが何回もあるか、一回もないか、それはいろんな場合があるでしょうけれども、しかし私の言っているのとだいたい同じような意味のことだと思うのでありまして、停電しているあいだというのは、やはり潜在意識の活動があるけれども、それがパッと意識に出てこないということだと思います。 』