オッペンハイマーの生涯から考えるカルマ(業)とグループソウル

第505回:『 オッペンハイマーの生涯から考えるカルマ(業)とグループソウル 』

【 その他参照ワード:原爆、水爆、マンハッタン計画、トリニティ実験、ロスアラモス 】

S.Light.M(カウンセリング・ヒプノセラピー・レイキヒーリング・各種セミナー&認定講座)の瀬川です!

アカデミー賞を受賞した映画『 オッペンハイマー 』が先日に日本でも公開されました。

当初は日本での公開予定はなかったものの、その後に配給会社が「様々な議論と検討の末」に日本での公開が決まったと言われています。

 

“ 戦争を終わらせた英雄 ” そして “ 悪魔の兵器の生みの親 ”

 

という《 2つの異名 》を持つロバート・オッペンハイマー、、、

広島と長崎で21万人の命を奪った原子爆弾(原爆)の開発を主導した彼の晩年は苦悩に苛(さいな)まれていたが、

 

果たして科学者としてのカルマ(業)とどう向き合ったのか・・・

グループソウルという全ての人は「源」で結び付いているという視点を持ち得たのか・・・

 

では、ここから『 映像の世紀バタフライエフェクト 』(NHK)という番組の「マンハッタン計画 オッペンハイマーの栄光と罪」の回を少し眺めてみます!

 

 

【 師となるハイゼンベルクとの出逢い 】

1920年代のドイツのゲッティンゲン大学には世界中から科学者が集まって来ました。
この大学は特に原子物理学の研究で名を馳せた世界屈指の研究拠点であり、ここに在籍していたのが「天才物理学者」と言われたヴェルナー・ハイゼンベルクです。

ハイゼンベルクはオッペンハイマーの師とも言われ、1933年に単独受賞としては史上最年少の31歳でノーベル物理学賞を受賞します。

そして、この時の同僚に日本では「原子物理学の父」と言われている、理化学研究所の物理学者である仁科芳雄もいました。

 

ハイゼンベルクの論文を読み、その世界に魅入られた22歳のオッペンハイマーは1926年にゲッティンゲン大学にやって来ますが、この時のオッペンハイマーは人付き合いが苦手で、同僚からは傲慢な人物と見做されていました。

そして、オッペンハイマーはハイゼンベルクの助言や指導を仰ぎながら博士号を取得しアメリカに戻り、27歳という若さでカリフォルニア大学の助教授に就任します。

 

【 親友そしてライバルでもあるローレンスとの出逢い 】

このカリフォルニア大学で無二の親友であり終生のライバルとなる物理学者のアーネスト・ローレンスと出逢います。
しかし、この時のローレンスはオッペンハイマーが足元にも及ばない業績を既に上げており、1939年にはノーベル物理学賞を受賞します。

受賞についてローレンスの肉声より:
『 私達は原子核の理解にささやかながらも貢献出来ました。 この研究の先には、これまで発見されたものを凌駕する宝物が眠っていることでしょう。 』

この発見が後の原爆に結び付いていきます、、、