〇 「離見の見」の中の「今後の世界における創造とは何か」より引用と抜粋(1971年)
『 (建築家へ向けての講演で「空間」について述べた後に続き)
それと、空間といいますと、たちまち時間ということが連想されるわけです。
時間と空間と関係ないみたいですけれども、しかし、やはり時間という問題が最後にもう一つ出てくるわけです。
時間というのは何か、時間もまた埋めら(れ)るべきものだという感覚を日本人は強くもっている。
忙しいのがいい。
つまり新幹線ができまして、東京まで行くのに三時間で行ける。
日帰りできる。
それだけ時間がもうかったと思うわけですね。
いったい何がもうかったのか。
私は思うのに、人間はだんだん損をしているんじゃないか。
何を損しているか。
つまり自分の時間を失っているんじゃないかと思いますね。
私も人にいろいろ用事を頼まれて、日記帳を出して、そこの空白を埋めてゆく習性をもっているわけです。
時間があいていたら、ああよろしい、あいてますからといって用事を引き受ける。
それで今日は、こんなところへ出てきてえらい目にあっているわけですけれども、しかし、そう言いながらも、またいつがあいているかと聞かれて、いつどうするか日記帳に予定を書く。
あとで、しまったと思うわけです。
そうなるのも時間的空白はものすごく貴重なものであって、自分のためにぜひ置いておきたいという意識が強くないからですね。
私など気が弱いですから、頼まれると、まずいことやと思いながら空白を埋める。
しかし、時間的空白というものはたいへんだいじなものであって、人間の幸福というものにつながっているわけですね。
もちろん空白ばかりというわけにいかん。
そこに適当にやはりいろいろ用事もあって、人のためにもしている。
しかし、そこにはまた空白もある。
さっきの建築と同じことです。
おそらく建築だって、そこへくれば、ひじょうに気持が落着いて、ぼやっとしている、たとえ二時間でも三時間でもぼーっとしている、時間的空白ですね。
ぼやっとできるような建物はいいですね。
なかへ入ってこまねずみのように走りまわらんならんような建物ばかりになるということは、不幸ですわね。 』
では、最初の二つはここで終了ですが、ここでの二つの話しは「加速」というテーマと関係しておりますが、