ジョン万次郎の人生に学ぶアイデンティティの創造と確立 ~しなやかさと行動も~

【 琉球王国へ渡る万次郎 】

ただ、目指す地は故郷の土佐ではなく、《 最初は 》琉球王国となりました。

と言うのも、当時の琉球王国は実質上は薩摩藩の支配下にありましたが、表向きには独立を維持していた為に幕府の力も及ばないであろうと万次郎は《 考えた末 》での事でした。

 

そして、ホノルルから直接に琉球王国へ渡る船がない為、上海へと向かう商船サラ・ボイド号に乗船し、琉球王国の沖合付近で小型ボートに《 乗り換え 》上陸を試みます。

この小型ボートは万次郎がゴールドラッシュで得た大金を《 元手に 》中古で購入したもので、〖 アドベンチャラー号(冒険者号) 〗と名付けました(笑)

こうして1851年(嘉永4年)1月、万次郎達はついに琉球王国への上陸を《 果たし 》ます!!!

 

 

【 家族と再会する万次郎 】

その後は直ちに処罰される事はなかったものの、琉球・薩摩・長崎で18ヶ月程の長き期間に渡る事情聴取を受けます。

その中で万次郎は漂流の経緯のみならず、アメリカで見た蒸気機関車や蒸気船などに加え、アメリカ人の暮らしぶりや文化や産業技術、更にアメリカ政治の仕組みなども話します。

すると、とても興味を抱いたのが積極的に西洋技術を導入していた薩摩藩主の島津斉彬(なりあきら)でした。

 

ちなみに、万次郎は自分が見聞きしたアメリカの光景などを絵入りで図説した『 漂巽気畧(ひょうそんきりゃく) 』(述:万次郎、記:河田小龍記)なども残しています。

そして、島津斉彬は万次郎を賓客のようにもてなし、その後、無事に故郷の土佐へと帰る事が出来、11年振りに母親を始めとした家族との再会を果たします!!!

 

【 黒船来航に動揺する日本 】

万次郎が帰国を果たした翌年の1853年(嘉永6年)6月3日、アメリカ合衆国海軍艦隊司令のマシュー・ペリー率いる4隻の艦隊が浦賀沖に現れます。

いわゆる「黒船来航」です!

 

幕府はペリーの求めに応じて「開国する」のか、あるいは「戦争する」かの《 二者択一 》に悩まされます。

そこでアメリカを知る《 唯一の日本人 》である万次郎を江戸に呼び寄せます。

そして、万次郎は老中の阿部正弘などに帰国の目的の一つであった『 日本の港を開く(為に自分は努力する) 』との思いの丈を伝えます。

幕府も万次郎の思いに心を揺り動かされ、万次郎は幕臣に取り立てられ異例の大出世を遂げる事になりました!

 

こうして翌年の1854年(嘉永7年)3月3日、再来日したペリーとの間で「日米和親条約」が締結され、その中には漂着したアメリカ人を保護する事も含め、万次郎の思いは《 形となって実を結ぶ 》事となりました!!!

 

 

しかし、このような万次郎の活躍を巡り、その《 周辺 》では「攘夷派(外国(人)を追い払い交流しない)」「開国派」との争いが日本国内で繰り広げられていきます、、、