ジョン万次郎の人生に学ぶアイデンティティの創造と確立 ~しなやかさと行動も~

【 世界を駆け巡る万次郎 】

万次郎はホイットフィールド船長の家に居候しながら、地元の《 小学校 》に通って英語の読み書きを習います。

その後は航海術を学ぶ為の専門学校バートレット・アカデミーに入学し、成績はクラスで1番になるほどでした。

 

そして、アメリカ生活4年目になる1846年(弘化3年)5月16日、万次郎は別の捕鯨船フランクリン号に給仕係として乗り込み、大西洋やインド洋や太平洋などを3年4ヶ月に渡り一攫千金を狙った鯨漁をしていきます。

この時点で漂流からの救助を含め、万次郎は既に「世界を2周した」事になりました!

 

余談ですが、日本の鯨漁では捕獲した鯨は食料を始めとして余す所なく(ほぼ)全ての部位を活用しています。

しかし、当時のアメリカの捕鯨では鯨油のみを採取し残りは全て捨てていました。

鯨の保護活動の是非などの意味ではなく、この《 活用法 》が鯨(漁)に関する日本と世界との《 価値観の違い 》になっています。

 

 

【 揺れ動く万次郎 】

鯨漁を終え1849年(嘉永2年)9月23日にニューベッドフォードに《 戻って来た 》万次郎、この時「22歳」です。

ホイットフィールド船長は万次郎の働きを褒め讃え「万次郎に自分の家業を継いで貰い、姪と結婚して欲しい」と話を持ち掛けます。

しかし、万次郎は日本への帰国を諦めていた訳ではありませんでした、、、

 

と言うのも、鯨漁をしていた最中の1847年3月12日付けのホイットフィールド船長宛ての手紙の中で『 今後、船は琉球諸島へ向かう予定なので、その際に日本に上陸出来ればと考えている 』との内容を綴っていました。

しかし、フランクリン号の船長は万次郎の下船を許可しなかった為、その時は帰国を断念しアメリカへ《 戻って 》来ました。

 

この頃の万次郎は鯨漁で高収入も得ていて、《 このまま 》アメリカで暮らしても大丈夫だと考えたり、ホイットフィールド船長への恩義も感じていました。

しかし、鯨漁で寄港した幾つもの港で「鯨漁をしている中で漂流してしまい、救助を求め日本へ漂着したアメリカ人達が拷問などの酷い仕打ちを受けている」との話を万次郎は耳にし、アメリカの新聞でも大々的に取り上げられていました。

 

それに呼応し、アメリカ政府に対して日本への開国を迫るべきだとの論調がアメリカ国内では高まりを見せます。

そして、ホイットフィールド船長に宛てた先の手紙の中で万次郎は『 自分は日本の港を開くよう(開けるよう)努力したい 』と申し添えていて、手紙で自らを〖 ジョン・マン 日本人 〗とサインしていました。

日本には母親もおり、ホノルルで留まっている仲間達もいて、万次郎の心は《 揺れ動いて 》ました、、、

 

 

【 ゴールドラッシュにあやかる万次郎(笑) 】

万次郎が鯨漁に出ている最中の1848年1月、カリフォルニアの山中で金(ゴールド)が発見されます。

これがいわゆる「ゴールドラッシュ」という一攫千金のブームに繋がり、鯨漁の船員達の多くも船を下り金の採掘へと《 舵取り 》を変化させていた時機でした。

 

鯨漁を終え戻って来た万次郎も金の採掘に取り掛かり、2ケ月ほどで600ドルを手にします!

これはフランクリン号での万次郎に対して支払われる配当金の約16年分に値する大金となりました(笑)

そして、この大金を元手にすれば日本への帰国の足がかりになるのでは、、、と万次郎は考え始め、《 再び 》日本への帰国に向けて《 行動開始 》となっていきます、、、

 

そして、日本への帰国を《 選択し決断した 》万次郎を支援する地元の新聞社の後押しもあり、サンフランシスコから商船に乗りホノルルへ向かい、そこで残っていた仲間達と合流し一緒に日本への帰国に挑む事になっていきます!!!