差別(という心や意識)は自らを貶める ~ジャッキー・ロビンソンと美味しんぼより~

リッキー氏:
『 今や君は一本立ちした。
  あとは君自身でやれば大丈夫だ。 』

 

この言葉をキッカケとし、その後の彼は、

 

必要以上に我慢することを止める

 

ようになっていきます。
ただ、この意味も審判には正式な抗議をし、時に観客のヤジにはヤジで応えるなど、ある意味では選手としては当たり前な行為(行動)でもあり、他の白人選手がそのような《 姿勢 》を取っても咎められる事など一切無い中、《 彼にだけ 》反抗的などの批判が寄せられます。

しかし、彼は自らの《 姿勢 》を崩すことなく続けていきますが、これは彼なりの《 「思い・言葉・行動」の一貫性を保つ(事の大切さと必要性) 》を《 体現 》したものなのかもしれません、、、

言わば、黒人のみならず白人のファンの応援なども《 後押し 》になり、彼においては、

 

自らに《 自信 》を持てるようになった

 

というのが一つの理由(要因)となっているのかもしれません。

その後の彼は成績も素晴らしいものを収め続けていき、36歳の時にチームを念願のワールドシリーズの初制覇に導きました。

そして、彼が37歳の時には日本にも来日し、日本チームと交流試合を行ったりなど、その当時の日本のプロ野球選手や日本の野球ファンなどにも《 多大な影響 》を与えました。

その後は良い条件での他球団へのトレード話も持ち上がったりなどしましたが、自らの体力の衰えなどを《 自覚 》していた彼は拒否し、37歳で引退を表明し、結果としては日本でのプレーが現役最後となりました。

そして、引退後の彼は監督やコーチになる事を夢見ていましたが、メジャーリーグは黒人を選手としては認めても指導者には向かないと《 この期に及んでも 》そのような考え?差別?に固執、彼は野球界を去らざるを得なくなりました。

 

ジャッキー:
『 白人は黒人の命令を受けないというばかげた見方がまかり通っている。 』

 

そして、この頃のアメリカでは差別撤廃を主張する黒人と、それを《 力ずくで押さえつけようとする 》白人との対立が激化していました。

その後の彼は食品会社で働くと同時に、黒人へも法の下の平等を求める公民権運動の為の募金活動を行ったりなどに取り組んでいきますが、黒人達の間ではアメリカは《 能力のある特別な人間(黒人)にだけ 》活躍の場を与えるようになったに過ぎない、、、との言わば失望や絶望などの《 空気が蔓延 》しつつもありました。

そして、44歳になった彼は公民権運動への協力を続けていく中で、

ジャッキー:
『 白人は昔に比べたら良くなったからと、お決まりの文句を口にして黒人を黙らせようとする。 』

 

そこで彼は白人の力を借りず、黒人自身の手で扉を開く事が出来るようにする為に、1964年に「黒人による黒人の為の」フリーダムナショナル銀行の創設者の一人となりました。

そして、黒人の監督やコーチ誕生の《 姿や光景を見る 》事なく1972年に53歳で他界されました。
そして、彼の墓石には、

 

【 人生というのは他の人の人生に少しでも影響を与えない限り意義あるものではなくなる 】

 

との《 言葉が刻まれて 》おります。
そして、彼がデビューして50周年に当たる1997年にメジャーリーグは彼の背番号「42」を全球団の永久欠番にする事を決め、2004年に4月15日を「ジャッキー・ロビンソンデー」に制定するという《 経緯 》になりました。

そして、彼の妻レイチェルは、

 

レイチェル:
『 最初の黒人メジャーリーガーとして過剰に取り上げられることをジャッキーは喜ばない。
  こんな良い選手がいたとだけ記憶してもらえるようになることを望んでいると思います。 』

 

と、当時お話しされたそうです。