群衆心理(群集心理)が向かう先には:後半 ~理性からの協力と感情で群れる事の違い~

ところで、『 群衆心理 』を愛読していたアドルフ・ヒトラーは自らの著作『 わが闘争 』の中で次のように書いています。

アドルフ・ヒトラー:
『 ある理念を大衆に伝達する能力を示す扇動者は、しかもかれが単なるデマゴーグにすぎないとしても、つねに心理研究家であらねばならない。
  そうすればかれは、人間にうとい、世間から遠ざかっている理論家よりも、つねに指導者にもっとよく適するであろう。
  大衆の受容能力は非常に限られており、理解力は小さいが、そのかわりに忘却力は大きい。
  この事実からすべて効果的な宣伝は、重点をうんと制限して、そしてこれをスローガンのように利用し、そのことばによって、目的としたものが最後の一人にまで思いうかべることができるように継続的に行われなければならない。 』

 

先程も出て来ましたが、ここでは『 継続的に 』との箇所から、

 

潜在意識は繰り返す毎に定着する

 

という事が《 明らかに意図して 》行われております。

そして「国民は自らで考える事が出来ないばかりでなく、すぐに忘れ去ってしまうもの」との趣旨が述べられていますが、《 喉元過ぎれば熱さを忘れる 》のは今の私達も同様であり、何度も同じ事(同じ過ち)を繰り返し続けているのではないでしょうか、、、

 

そして、アドルフ・ヒトラーはこのように「断言」を何度も「反復」するという演説手法で印象づけを強烈に行っていきますが、ル・ボンはそこに更にもう一つの手口を加えている点を次のように述べています。

ル・ボン:
『 ある断言が、十分に反復されて、その反復によって全体の意見が一致したときには、いわゆる意見の趨勢なるものが形づくられて、強力な感染作用が、その間に働くのである。
  群衆の思想、感情、感動、信念などは、無菌のそれにもひとしい激烈な感染力を具(そな)えている。 』

 

このように、おそらく皮肉を込めて《 感染(力) 》という表現を用いたと感じられますが、《 自らの軸や芯がぶれている 》と容易に感染してしまうという意味にも取る事が可能です。
さらにル・ボンは、

ル・ボン:
『 意見や信念が伝播するのは、感染の作用によるのであって、推理の作用によることはあまりない。
  現在、労働者たちのいだく考えは、酒場で、断言、反復、感染の結果、形づくられるのである。 』

 

ところで、現代(現在)はSNS等の時代でもあります。
そして、このようなSNS等の中には文字数などの制限があり、更に感情を伴う言葉を縮め過ぎていく(過激化する)と、少なくとも断言と感染は《 誰でも実現し得る 》という事になります。

そして、ル・ボンはフランス革命において指導者達が《 群衆を操る 》のに役立てていたのが、新聞や雑誌などのメディアであると指摘します。

ル・ボン:
『 極めて不十分ながら、定期刊行物が、指導者のかわりをすることもある。
  定期刊行物というものは、読者たちに意見をつくってやり、彼等に出来合いの文句をつぎこんで、自ら熟慮反省する労をはぶいてしまうのである。 』

 

と同時に、このようなメデイアは世論(読者)に容易に《 擦り寄る 》点をも指摘しています。

ル・ボン:
『 以前には世論を指導した新聞雑誌はどうかといえば、これも、政府と同じく、群衆の力の前には譲歩せねばならなかった。
  もちろん、その勢力は絶大である。
  しかし、それというのも、新聞雑誌が、民衆の意見と意見の不断の変化とをもっぱら反映しているからにすぎない。
  新聞雑誌は、単なる報道機関に化して、どんな思想もどんな主義も強制しなくなり、ただ世論のあらゆる変化に追随する。 』