群衆心理(群集心理)が向かう先には:後半 ~理性からの協力と感情で群れる事の違い~

また、SDGsという持続可能な社会と謳いながらも、ロシアとウクライナとの戦争における原発の標的の危惧(危機)は皆まで言うなでもありますし、そして原発が事故を起こしたら《 取り返しのつかない経験 》を既に日本もしていながらも、原発の運転期間延長や建て替え(おそらく今後は新増設も含め)を勝手に決めたりなど、、、

そして、前回のTOPICSをお読みになって頂いた方は記憶に残っているかもしれませんが、ある現役官僚の声として『 国民に深く突っ込まれたくないが(検証されたくはないが)、ドンドン推し進めたい政策では《 キャッチフレーズ 》のようなニュアンスにし、しかも、そのほとんどの言葉をカタカナや横文字(英語)にしてしまう事で《 フワッと感(曖昧でよく分からない) 》を出す手法をよく用いる 』とご紹介致しました。

つい先日には、今回の原発(回帰)の方針転換についての理由として、、、「GX(グリーントランスフォーメーション)」の実現へ向けて、、、と首相が説明!?していました、、、

また、かつて原発は《 安全神話(という幻想) 》と呼ばれていました、、、

 

そして、この先の内容と「繋がって」「重なって」くるものですが、現在も原発を推進し続けている経済産業省のCMが連日多くの番組で(垂れ)流され続けております。
これは福島原発から流出し続けている汚染水(CMではALPS処理水と喧伝していますが)を海洋放出する為の《 布石 》である事は論を待ちません。
科学的知見も確かに大切で尊重すべき性質のものではありますが、《 これ迄 》は《 事なかれ(主義) 》(本当に何も無かったのかどうかの事実や真実は分かりませんが)で来たかもしれない何かが、《 この先も 》同じであるかどうかは誰にも《 断言 》出来ません。

しかも海洋に放出されるものの中には(仮に低濃度であったとしても)《 危うい何か(物質) 》が存在しているのは事実でもあり真実です、、、

なぜなら、長期的な視点からの様々な影響を《 人類は(まだ)経験出来ていない(経験していない) 》からです、、、

ル・ボン:
『 道理も議論も、ある種の言葉やある種の標語に対しては抵抗することができないであろう。
  群衆の前で、心をこめてそれらを口にすると、たちまち、人々の面はうやうやしくなり、頭をたれる。
  多くの人々は、それらを自然の力、いや超自然の力であると考えた。
  言葉や標語は、漠然とした壮大な心象を人々の心のうちに呼び起こす。
  心象を暈(ぼか)す漠然さそのものが、神秘な力を増大させるのである。
  言葉とは、心象を呼び出す押しボタンにほかならないのだ。 』

 

ところで、「甘言」という言葉がありますが、この真意は「戯(ざ)れ言」であって「諫言」とは違います。
そして「甘言」や「戯れ言」が行動となって現れるのが《 忖度 》であり、ここには《 不作為 》も含まれます。

ル・ボンの政治家への見方:
『 政治家の最も肝要な職責の一つは、古い名称のままでは群衆に嫌悪される事物を、気うけのよい言葉、いや少なくとも偏頗(へんぱ)のない言葉で呼ぶことにある。
  言葉の力は、実に偉大であるから、用語を巧みに選択しさえすれば、最もいまわしいものでも受けいれさせることができるほどである。 』

 

そして、ル・ボンは指導者の手口として「幻想(事実でも真実でもないもの)」を挙げています。

ル・ボン:
『 幻想は、民衆にとって必要欠くべからざるものであるために、民衆は、灯火に向う昆虫のように、幻想を提供する修辞家のほうへ本能的に向うのである。
  これまで群衆が、真実を渇望したことはなかった。
  群衆は、自分らの気にいらぬ明白な事実の前では、身をかわして、むしろ誤謬でも魅力があるならば、それを神のように崇めようとする。
  群衆に幻想を与える術を心得ている者は、容易に群衆の支配者となり、群衆の幻想を打破しようと試みる者は、常に群衆のいけにえとなる。 』