アドラーは心理学?スピリチュアル? ~ソーシャルディスタンス(社会的距離)と広場恐怖症も含め~

第2回目:『 自分を苦しめているものの正体 』から
ある男性が、自分の容姿も性格にも劣等感が一杯で、それで彼女が出来ない、との悩みで、安土羅先生の元に訪れてきました、、、
そこで「優越性の追求」というテーマの基に、、、

安土羅先生:
『 もし、あなたのその顔が好きだ!という女性が現れたら?

  (そして、この男性が、それならばもの凄く嬉しいです!との返答に対し)
  だったら、その外見は劣等性では無かったという事になりますね。
  あなたの言う劣等感は、ただの思い込みかもしれない、、、

  何かが劣っているのではなく、問題は、その顔や肉体について、あなたがどんな価値を与えるかなんだ。

身長や年収だって、あくまで他者との比較の中で生まれた主観でしょ。
  あなたは本当に彼女が欲しいと思っているのかな?
  本当は彼女なんて欲しくないのに、自分で自分を騙しているのではないか?
  (例えば、身長が180㎝あれば、などの自分の理想の)可能性の中に生きていたいが為に、、、 』

と。
そして、この視点をアドラーは次のように表現しています。

 

人間であるという事は劣等感を持っているという事

 

と。
そして、番組内では「劣等コンプレックス」と「優越コンプレックス」という視点を、次のように整理しておりました。

 

「劣等コンプレックス」:
・ AであるからBできない
・ AでないからBできない
→ 本当は因果性が無いのに、そのように自分で思い込んでいる(見かけの因果性)

 

「優越コンプレックス」
・ 自分を実際よりも優れているように見せようとする
・ 他者からどう見られているかを非常に気にする
・ 自分で自分についての理想を高くしようとする
→ 他人を貶(おとし)める、いじめ、差別、自己憐憫(不幸の自慢話等)などで、自分を相対的に優位に立たせる人(価値低減傾向)

 

そして、この視点をアドラーは次のように表現しています。

 

我々の文化においては弱さは非常に強くて権力がある

 

と。
これはポジティブな視点では「赤ちゃん」なども当てはまりますが、当然ながら、別にそれが悪いという訳ではありません(笑)
ちなみに、この「劣等コンプレックス」と「優越コンプレックス」というのは、あくまで私個人の視点から眺めてみますと、現在の「(様々な)格差や分断(分離)」という現象に炙り出されているように思えてしまいます。
そして、

安土羅先生:
『 (この男性が、どんなコンプレックスも受け入れるので、どうすれば彼女が出来ますか?との問いに対し)
  あなたは彼女がいる男やモテる男に負けてると思っているだろう?
  競争や勝ち負けで生きていると、必然的に劣等感が生まれてくる。

  常に自分を誰かと比べて、あの人には勝った、あの人には負けた、、、そう考える事になるから。
  だからあなたは、一方で誰かを羨(うらや)み、一方で誰かを見下(くだ)す、そういう生き方をしているんだ。

  必要以上に自分を大きく見せる必要はないんだよ。
  もっと普通である事の勇気を持つんだ。 』

と。
そして、この視点をアドラーは次のように表現しています。

 

そのままの自分を認めよ

 

と。
ちなみに、ここでも私の個人的視点ですが、「普通」に生きたいと願う際には、「普通」の意味付けを自分で自分自身に与える事が必要になります。
しかし、世間一般での「普通(という見方)」で自分自身に意味付けをしようと思っても、それは「不可能」にもなります。

なぜなら、これも「比較(の対象)」となり、どこまで行っても「堂々巡り」になるからです(笑)
アドラー(安土羅先生)が「普通である事の勇気」とコメントした真意には、これを理解した上での「逆もまた真なり」という真意が込められているように私には感じますが、皆さんは如何でしょうか???