【 第五段階:「受容」について 】
もし患者に十分の時間があり( 突然の、予期しない死ではなくて )、そして前にのべたいくつかの段階を通るのに若干の助けが得られれば、かれは自分の ” 運命 ” について抑鬱もなく怒りも覚えないある段階に達する。
かれはすでに感情を現わすことができた。
生きている人、健康な人に対する羨望、自分の最後にそれほど早く直面しないでもいい人々に対する怒りなどは吐きつくすことができた。
かれは自分をとりまく多くの意味深い人々や場所などを、もうすぐすべて失わなければならないという、その嘆きも悲しみも仕終え、かれはいまある程度静かな期待をもって、近づく自分の終焉を見詰めることができる。
(中略)
受容を幸福の段階と誤認してはならない。
受容にはほとんどの感情がなくなっている。
それはあたかも、痛みは去り、闘争は終わり、ある患者がいったように、 ” 長い旅行の前の最後の休息 ” のための時が来たかのようである。
この時期はまた、患者自身よりは家族が、より大きな助けと理解と支えとを要する時期でもある。
(中略)
このときわたしたちのコミュニケーションは言葉ではなく言外である。
患者はただちょっと手を動かし、しばらく掛けなさいと招くだけである。
患者はただわたしたちの手を握り、黙ってすわっていてくださいと頼むだけである。
このような沈黙の時間こそ、死にかかった人の前にいても不快感をおぼえない人々にとっては、またとない有意義なコミュニケーションのそれとなり得る。

【 第六段階:「希望」について 】
わたしたちは、これまでのところ、人々が悲劇的なニュースをつきつけられてから経過するいくつかの異なる段階 ~すなわち、精神医学用語でいう防衛機制( 自分の置かれている極度に困難な情況にどう対処するかの仕方 )について論じてきた。
これらの手段が持続する時間はいろいろと異なって一定しない。
かつそれらは交替し、またときによって相並んで併存する。
だが通例、これら諸段階をとおして常時維持していくひとつの流れは希望ということである。
(中略)
末期患者のいうことばに耳を傾けると、わたしたちはつねに、つぎのことを感じる。
どれほど受容的な、どれほど現実直視的な患者でも、なにかの治療法の可能性をあきらめていない。
新薬の開発とか、 ” 研究プロジェクトの土壇場での成功 ” などの望みは棄てていない。
かれらが数日間、数週間、数か月の痛苦を耐えぬいていくのは、ひとえにこの一縷の希望にすがってなのである。
この苦しみも、さらにもう少し耐え忍ぶことができれば、なにかの意味を帯びてくるのにちがいない、苦しみも最終的には酬(むく)いられるだろうとの気持ちが、かれらを支えているのである。
(中略)
こういう万が一という希望が末期患者に特殊使命の感覚を与え、気力を維持させ、すでに万事が耐えがたい限界へ達しているのに、さらに加えられるテストにも耐えさせるのである。
ときには、この気持ちは苦しみの合理化である。
またときにはそれは一時的な、だがかれにとっては必要な否認の一形式なのである。
それをどう称(よ)ぼうと、わたしたちの患者のすべては微量の希望を持ち続け、とくにつらい時期時期を、それによって励まされている。
現実的な希望にしろそうでないにしろ、そのような希望をもたせてくれる医師へは最大の信頼がかけられる。
悪いニュースに囲まれながらも、そこに一つの希望が差し示されれば患者は感謝する。
だからといって医師が患者にウソをつかなければならないということではない。
それはただ、わたしたちが患者と希望を分けもつという意味である。

それでは、E・キューブラー・ロス氏の言葉は、ここで終了です!!!
どうでしたか、、、、