こんにちは!
レイキ ヒーラー&ヒプノセラピストの瀬川です。

 

ところで、早速ですが、前回のTOPICSにおける前半と致しましては、「PCIT(親子相互交流療法)」に焦点を当ててきましたが、今回の後半は「E・キューブラー・ロス氏」に光を当てて進めて参ります!

そこで、まず、今回はE・キューブラー・ロス氏の一冊の書籍を素材として活用していきますが、それに関しての私のコメントは極力控え、あくまで皆さん自身が、それをどのように「捉え」、そして、どのように「考える」のかを趣旨として参ります。
その上で、最後に、「余談としてのニュアンス」の様に、私なりの視点を少しだけご紹介して参ります(笑)

 

では、進めて参りますが、E・キューブラー・ロス氏(1926年~2004年)をご存じのない方もいらっしゃるかと思いますので、簡単にご紹介して参ります。
彼女は精神科医であり、末期癌等の患者さんの「心のケア」に尽力していた方でもあります。
そして、そのように余命宣告を受けたなどの方々のサポートをしていくと同時に、そこでの「人の心の機微(変化や移り変わりなど)」を観察し、他の多くの患者さん等にも役立てようと試みていた方でもあります。

 

そこで今回は、氏の書籍の一つである『 死ぬ瞬間 死にゆく人々との対話 』(著:E・キューブラー・ロス、訳:川口正吉、読売新聞社)から引用と抜粋をしてお届けして参りますが、この書籍に関しましては、その後に別の人で新訳なども出版されておりますが、今回活用するのは当初の1971年版のものとなっておりますので、予めご了承下さい。

 

また、ここからお届けするE・キューブラー・ロス氏の説に関しましても、賛否を含め様々な意見や見解があるものでもありますし、また、当然ながら全ての人々に当てはめる事が出来るような性質のものでもありません。
更に、ここでの「人の心の機微(変化や移り変わりなど)」においては、宗教観(神の存否など)や文化的背景なども関係している側面があるのも事実です。

 

ただ、何故、今回のTOPICSで敢えて取り上げたかの理由も含め進めて参りますし、また、今回のTOPICSは「死」(のみ)に焦点を当てた内容ではなく、多くの方々の日常における事柄と繋がっている部分などが出て参りますので、あまり深刻に受けとめたりする必要性もありませんのと、日常生活においては、このようなテーマに触れる機会はあまり無いかと思われますので、是非、皆さんの視点の引き出しを少し増やすという意味合いからも、お読み進め頂ければ幸いです(笑)

 

では、本題に入って参りますが、E・キューブラー・ロス氏は患者さん等の観察を通し、先ほどの「人の心の機微(変化や移り変わりなど)」には、「幾つかの段階」があると提唱しておりますので、最初に、その各段階をご紹介致します。
それが、

 

① 否認と隔離

② 怒り

③ 取り引き

④ 抑鬱(うつ)

⑤ 受容

⑥ 希望

 

となっております。
なお、通常ではこの各段階は、「⑤ 受容」までの「5段階」として紹介されているケースが多いですが、私個人としては「⑥ 希望」を含めたいとの思いから、このTOPICSでは「6段階」として進めて参ります!

そして、最初に、何故?このような各段階が私達の日常の事柄と繋がりがあるのかと申しますと、

 

私達が抱える「悩み」という側面においても・・・

この「(各)段階」と似たような・・・

道筋を辿るケースが(比較的)多い

 

からです。
そして、

 

「悩み」における多くの困り事では・・・

「先」が見通せない

 

という「心の揺れ動き(不安や動揺など)」から、「心のバランス」を崩しやすくなる傾向も高くなるからです。
勿論、最初にお断り致しましたように、全ての人に当てはまる訳でもありませんし、全ての段階を必ずしも通って行く訳でもありませんが、大まかではありますが、「(段階という)地図や羅針盤」という側面に光を当てる事で、もしかしたら活用していける方々も多くいらっしゃるのではないかとの、私の思いからというのが、今回取り上げた「理由」でもあります!

 

では、それぞれの段階について、E・キューブラー・ロス氏の言葉を、そのまま(引用と抜粋で)ご紹介して参りますが、最初はこの書籍の序文として述べられている部分の扉から開いて行きます!

『 わたしは死にかかっている患者と二年半をともにし、ともに働いた。
  この本は、そうしたはじめての実験のことを語るものである。
  そしてこの実験は、参加者すべてにとって有意義な、教えられるところの多いものであった。

  この本は、死にかかった患者の管理方法を教える教科書として書かれたものではない。
  また死にゆく人の心理の完全研究をめざしたものでもない。
 
  この本はただ、患者を、一人の人間として見直す、この角度から焦点を当てなおすという、まったく新しい、チャレンジングな、与えられた機会の、率直な記録にすぎないのだ。
  そうした患者を対話のなかへ参加させ、われわれの、病院という方法による、患者管理の強味と弱味とを、患者自身から学ぼうとしたものなのである。

  (中略)

  それが相互に満足を与える経験であり得ることを悟るだろう。
  その人たちは、人間の心の働きについて、われわれの存在のユニークな人間的側面について、より多くを学ぶだろう。
  そして、この経験から、より豊かになるだろう。 』

 

では、第一段階の「否認と隔離」についてです。

『 ” われわれはしょっちゅう太陽を見ていることはできない、われわれはしょっちゅう死にたち向かっていることはできない ”

  と言ったのはだれの言葉だったろうか?
  とにかく、これらの患者は、自分自身の死の可能性をしばらくの間は見詰めることができる。
  だが生き続けるためには、死の考慮はわきへ外(そ)らしておかなければならないのだ。

  わたしは、否認が、これらの患者のあるものが長期にわたってその中で生き続けなければならないこうした不快な、痛ましい事態に対する、かれらの健康な対処方法である点を強調したい。

  否認は、予期しない衝撃的なニュースを聞かされるときの緩衝装置として働くのである。
  否認によって、患者は、崩れようとするみずからを取りまとめ、やがて別の、よりゆるやかな自己防衛法を動員することができる。

  だからといって、否認した患者が、後で、自分の迫りくる死についてだれかとゆっくりと落ち着いて語れるようにならないとは限らない。
  いやだれかと語ることを喜び、安堵することすらあることを、なんら妨げるものではない。

  (中略)

  否認はふつう一時的な自己防衛であり、間もなく部分的受容にとって代えられる。
  否認維持は、最後までそれが続くならば(それはきわめて希だとわたし(ロス氏)は今も考えている)、必ずしも不幸を増大するものではない。 』

 

『 患者にとって、否認はつねに必要であり、末期よりも致命疾患のいちばんの初期にそれが必要であることを、わたしは強調したい。

  (中略)

  患者が否認機制よりも孤立化(隔離)機制を使用するようになるのは、ふつうずっと末期に近づいてからである。
  患者は自分の健康と病気とについて、まるで隣あって存在することが許される双生児であるかのように語り、死を直視しながら、一方で希望をも維持し続けるのである。

  言いかえれば、患者の最初の反応は一時的ショックで、そこから徐々に立ち直る。
  当初の麻痺感情が消えていくにつれ、患者はみずからをまとめることができるようになり、ふつう、
  「 違います、わたしがそれであるはずがない 」
  と答える。

  われわれの無意識の心のなかでは、われわれはまったくの不死であって、自分もまた死に直面しなければならないと認めるなどは考えすらもできないのである。
  患者がしだいにこの否認を取り下げ、より軽い自己防衛機制を使うようになるのは、主として病状の告げられ方、不可避事態を認めるに要するその患者固有の時間経過、つね日ごろ痛ましい情況に対応する心の準備ができているか否かなどによって、遅速、程度の差がでてくる。 』

 

次は、第二段階の「怒り」についてです。

『 否認という第一段階がもはや維持できなくなると、怒り、憤り、羨望、恨みなどの諸感情がこれにとって代わる。
  論理を追って、つぎの問いは、 ” なぜ私を? ” である。

  (中略)

  否認の段階とは違い、この怒りの段階は、家族およびスタッフの立場からしてじつに対処がむずかしい。
  それは、この怒りはあらゆる方向へ向けられ(転移)、ときとしてほとんどデタラメに周囲環境へ投射されるからである。

  (中略)

  ここでの問題は、患者の立場になって考え、この怒りがどこから来るかを考えようとする人がきわめて少ないということだ。
  たぶんわれわれ自身も、われわれの活動がまだ仕終わらないうちに中断されたら、怒るだろう。
  建てはじめたビルディングが、未完成のままわれわれの手を放れなければならなくなり、代わって他人が完成することとなったら、怒るであろう。

  もしわれわれが旅行や趣味の追求など、休息と慰安の数年を楽しむために働いた金をコツコツと貯めておいたのに、いよいよのときになって、「 それは私のことじゃない 」と否認しないではいられない悲劇的な事実をつきつけられたらどうであろうか?

  (中略)

  この時期では患者はどこへ眼を向けようと、見いだすものことごとくが不平不満のタネである。

  (中略)

  悲劇はたぶん、わたしたちが患者の怒りの理由を考えず、それがほんとうは怒りの対象となっている人たちとはなんの関係もないのに、個人的に、感情的に受けとるところにあるのではないだろうか。

  スタッフあるいは家族が、患者の怒りに対して個人的に反応すれば、患者の怒りに油をそそぎ、その敵対態度を増させるだけである。
  スタッフあるいは家族は回避をするだろう。
  訪問あるいは見回りを短くするだろう。

  あるいはまた、問題がまったく別のところにあることを知らず、自分の立場を擁護するため、患者と無意味な言い争いをするようになるだろう。 』

 

次は、第三段階の「取り引き」についてです。

『 第三段階である取り引きの段階は、あまり知られておらず、かつまた期間は短いが、患者にとって同じように助けとなる。

  もしわれわれが第一段階で悲しい事実に直面することができず、第二段階で人々と神とに対して憤りをぶつけたとすれば、つぎには、人々ないし神に対してなにかの申し出をし、なんらかの約束を結ぶことを思いつくだろう。

  取り引きである。

  神となんらかの取り引きができれば、もしかすると、この悲しい不可避の出来事をもうすこし先へ延ばせるかもしれない、と。

  (中略)

  患者は過去の経験からして、よい振る舞いをすればそれだけの報償があり、特別サービスへの願望がかなえてもらえる、かすかなチャンスがあることを知っている。
  特別サービスへの願望とは何か。

  それはほとんどつねに延命の願望である。

  延命願望のつぎに大きいのは、痛みと肉体的不快のない日があと幾日か欲しいという願望である。 』

 

『 たいていの取り引きは神とのあいだになされ、ふつう秘密とされるか、言外にのべられるか、でなければ牧師の私室にしまいこまれる。
  外に聴者のいない患者とわたしたちだけでのインタビューでは、驚くほど多数の患者が、多少の延命と交換に、 ” 神に生涯を捧げる ” 、あるいは ” 教会への奉仕に一生を捧げる ” 約束をした。
  わたしたちの患者の多くはまた、(もし医師がその科学知識をかれらの生命を延ばすために使用してくれるならば、)肉体の一部を ” 科学 ” に与えてもいいと約束した。

  (中略)

  こうしてわたしたちは患者の心の悩みを探り続け、患者の不合理な恐怖感、あるいは罰せられたい願望を解放してやるようにする。
  この不合理な恐怖感や罰せられたい願望というのは、二度三度と取り引きをくり返すことによって、また ” 期限 ” がきても約束を守らず、それによって過度の罪責感が強まる一方となり、そのため生じてきたものなのである。 』

 

次は、第四段階の「抑鬱(うつ)」についてです。

《 第一の抑鬱 》
『 末期患者がもはや自分の病気を否認できなくなり、二度三度の手術あるいは入院加療を受けなければならなくなり、さらに症候がいくつか現われはじめ、あるいは衰弱が加わってくると、かれはもはや病気を微笑で片づけているわけにはいかなくなる。

  かれの感情喪失、泰然自若、あるいは憤怒などは、ほどなく、大きなものを失くしたという喪失感に取って代えられる。 』

 

『 患者を扱うものならだれでも、こうした抑鬱の原因はきわめてよく知っている。

  わたしたちがともすれば忘れがちなのは、末期患者が世界との訣別を覚悟するために経験しなければならない準備的悲嘆である。

  この二つの型の抑鬱を区別するならば、第一の抑鬱を反応抑鬱、第二のそれを準備抑鬱とわたしは称(よ)びたいと思う。
  第一のものは第二のものとは性質が異なり、まったく違う扱い方をしなければならない。

  ( 《 第一の抑鬱に対し 》 )思いやりのある人ならば、抑鬱の原因を探りだし、抑鬱にしばしば伴う非現実的な罪責感や羞恥感をいくぶんでも軽くしてやることはさしてむずかしいことではない。 』

 

《 第二の抑鬱 》
『 第二の型の抑鬱は、過去の喪失からではなく、さしせまった喪失を思い悩むことから生じる。

  悲しみに沈む人に対してわたしたちの最初にすることは、気を引き立て、物事をそう暗く絶望的に見ないようにいってやることである。
  生の明るい側を、かれらをとりまく、色彩のあふれた、積極的な事物をみるようにとすすめる。
  だがこれは多くの場合、わたしたち自身の要求の表現でもある。
  長期にわたって、悩み打ち沈んだ顔を見るのに耐えられないからである。

  末期患者に見られる第一の型の抑鬱を扱うにも、これは有効なアプローチとなり得る。

  (中略)

  患者はいま、その愛する一切の事物、一切の人々を失おうとしている。
  だから患者に悲しみを表現することを許してやってこそ、かれは最終的受容がはるかにやりやすくなるのである。
  この抑鬱段階のとき、悲しむなとしつこくはいわず、ただ黙ってそばで掛けていてくれる人たちに、患者は感謝することができるのである。

  第二の型のこの抑鬱は第一の型とは違い、ふつう静かな抑鬱である。
  ( 第一の型では、患者は他人と分けもたなければならぬものがひじょうに多く、各種の医療関係者側からのひんぱんな話しかけ、積極的な干渉をすら必要とする )

  準備型の悲嘆では、言葉はまったく、あるいはほとんど、いらない。
  悲しみは患者と訪問者との両方から表現される感情であり、ことばによらず、むしろ手を握るとか、髪をなでてやるとか、でなければただだまってそばにすわっているだけのほうが、ずっと望ましい。

  患者は、後に残す物事よりも、眼前に迫る物事への関心を集中しはじめる。
  この時期には、訪問者の患者の気持ちを引き立てようとする過度の干渉態度は、患者の情動的準備を押しすすめるよりは、妨げる場合が多い。

  (中略)

  患者の願望と準備とが一方にあり、他方には周囲の人々の万一の期待と努力がある、そのくい違いが、多くの場合、わたしたちの患者の心のなかに深刻な悲しみと動揺とを来たさせるのである。 』

 

次は、第五段階の「受容」についてです。

『 もし患者に十分の時間があり( 突然の、予期しない死ではなくて )、そして前にのべたいくつかの段階を通るのに若干の助けが得られれば、かれは自分の ” 運命 ” について抑鬱もなく怒りも覚えないある段階に達する。

  かれはすでに感情を現わすことができた。

  生きている人、健康な人に対する羨望、自分の最後にそれほど早く直面しないでもいい人々に対する怒りなどは吐きつくすことができた。
  かれは自分をとりまく多くの意味深い人々や場所などを、もうすぐすべて失わなければならないという、その嘆きも悲しみも仕終え、かれはいまある程度静かな期待をもって、近づく自分の終焉を見詰めることができる。

  (中略)

  受容を幸福の段階と誤認してはならない。
  受容にはほとんどの感情がなくなっている。

  それはあたかも、痛みは去り、闘争は終わり、ある患者がいったように、 ” 長い旅行の前の最後の休息 ” のための時が来たかのようである。
  この時期はまた、患者自身よりは家族が、より大きな助けと理解と支えとを要する時期でもある。

  (中略)

  このときわたしたちのコミュニケーションは言葉ではなく言外である。
  患者はただちょっと手を動かし、しばらく掛けなさいと招くだけである。
  患者はただわたしたちの手を握り、黙ってすわっていてくださいと頼むだけである。

  このような沈黙の時間こそ、死にかかった人の前にいても不快感をおぼえない人々にとっては、またとない有意義なコミュニケーションのそれとなり得る。 』

 

最後は、第六段階の「希望」についてです。

『 わたしたちは、これまでのところ、人々が悲劇的なニュースをつきつけられてから経過するいくつかの異なる段階 ~すなわち、精神医学用語でいう防衛機制( 自分の置かれている極度に困難な情況にどう対処するかの仕方 )について論じてきた。

  これらの手段が持続する時間はいろいろと異なって一定しない。
  かつそれらは交替し、またときによって相並んで併存する。

  だが通例、これら諸段階をとおして常時維持していくひとつの流れは希望ということである。

  (中略)

  末期患者のいうことばに耳を傾けると、わたしたちはつねに、つぎのことを感じる。
  どれほど受容的な、どれほど現実直視的な患者でも、なにかの治療法の可能性をあきらめていない。
  新薬の開発とか、 ” 研究プロジェクトの土壇場での成功 ” などの望みは棄てていない。

  かれらが数日間、数週間、数か月の痛苦を耐えぬいていくのは、ひとえにこの一縷の希望にすがってなのである。
  この苦しみも、さらにもう少し耐え忍ぶことができれば、なにかの意味を帯びてくるのにちがいない、苦しみも最終的には酬(むく)いられるだろうとの気持ちが、かれらを支えているのである。

  (中略)

  こういう万が一という希望が末期患者に特殊使命の感覚を与え、気力を維持させ、すでに万事が耐えがたい限界へ達しているのに、さらに加えられるテストにも耐えさせるのである。
  ときには、この気持ちは苦しみの合理化である。
  またときにはそれは一時的な、だがかれにとっては必要な否認の一形式なのである。

  それをどう称(よ)ぼうと、わたしたちの患者のすべては微量の希望を持ち続け、とくにつらい時期時期を、それによって励まされている。
  現実的な希望にしろそうでないにしろ、そのような希望をもたせてくれる医師へは最大の信頼がかけられる。
  悪いニュースに囲まれながらも、そこに一つの希望が差し示されれば患者は感謝する。

  だからといって医師が患者にウソをつかなければならないということではない。
  それはただ、わたしたちが患者と希望を分けもつという意味である。 』

 

それでは、E・キューブラー・ロス氏の言葉はここで終了です。
如何でしたでしょうか、、、
内容もさることながら、当時(1971年出版)の表現方法や、また、訳文(原文のママご紹介)における(現在の)日本語との相違(漢字への変換等)などで、読み辛く感じた面もあろうかと思いますが、大まかなイメージが多少出来たかなぁ?の様な感じで全く大丈夫です!

 

また、もしかしたら、過去に経験した「悩み」と、どこか「繋がり」と「重なり」を感じた方もいらっしゃるかもしれません。
あるいは、そのような「悩み」と、目の前に迫り来る「死」とを同列には扱えないし、感じられない、それどころか、不謹慎である!などのご感想などを持たれた方もいらっしゃるかもしれません。
どのように「捉え」、どのように「考え」ても全くの自由ですし、答えや正解があるものではありません。

そして、既に察しのついている方々も多いかと思われますが、私からの一つの「問い掛け」です、、、

 

あなたは「今」・・・

現在の新型コロナウイルスに関して・・・

あなたの元に及ぼされている(不安や怖れなどの心の揺れ動きや、現実的な自粛なども含めての様々な)影響を・・・

(6段階の内の)どの段階で感じておりますでしょうか・・・

 

あるいは・・・

何も感じていないでしょうか・・・

 

または・・・

別の「心の機微」で感じているでしょうか・・・

 

これも特に正解や答えが存在しているものでもありませんし、日々、刻々と変化していく状況でもありますので、「今日」よりも「明日」、「明日」よりも「明後日」と変化していくのが自然なものでもあります。

なお、今回ご紹介したE・キューブラー・ロス氏に関しては、「死」というイメージをお持ちになられた方もいらっしゃるかもしれませんが、今回のテーマの趣旨は、新型コロナウイルスによりお亡くなりになられた方々や、そのご遺族の方々、あるいは、現在懸命に治療に取り組んでいる方々を念頭においている訳では決してございませんので、くれぐれも誤解の無きようお願い申し上げます。

 

では、ここからほんの少し、「余談としてのニュアンス」の様な、あくまで私個人の視点を少しだけお伝えして参ります。
新型コロナウイルスに関しては、本年に入りましてから幾度もTOPICSにおいてお伝えしておりますが、そのある回のTOPICSにおいては、私が以前に聞いた、ある一説に触れて、「ウイルスの性質は、(直接的に)症状を引き起こすものではなく、私達の(体などの弱い)部分に同調してくるもの(その結果、症状として現れやすくなる)」とご紹介した事があります。

また、もう一つの別の説として、

 

ウイルスを「人間的」に見立てると・・・

その性格は・・・

日和見(ひよりみ)主義

 

に似たような感があるとも耳にした事があります。
そして、この日和見主義を広辞苑(第六版:岩波書店)で調べると、

 

《 形勢をうかがって、自分の都合のよい方につこうと二股(ふたまた)をかけること 》

 

と定義されております。
そして、これを別の表現で言い換えると、

 

自分の(心の)軸が無い

 

とも置き換える事が可能かもしれません。
なお、ここでも誤解の無きようお断り致しますが、ウイルスに感染した人に(心の)軸が無いという意味では決してございませんし、また、自分は(心の軸)を持っているからウイルスに感染しないという意味でも決してありません。
これは、「人類」という大きな枠で捉えた際の向き合い方という意味です。

そして、このような日和見主義が現実化しているものとして、特に、ここ数年に顕著に現れてきた、

 

「(行き過ぎた)〇〇ファースト」や「今だけ 金だけ 自分だけ」

 

という風潮が蔓延していることからも明らかです。
そして、中には、「私は他人を蹴落としてでも、(自分だけは)幸せになりたい!」などの自分の軸を持っているという反論?もあるかもしれませんが、これは、このTOPICSで再三お伝えしております、

 

大切なのは真の動機

 

という視点が欠落している証ともなります。
そして、現在のように、常にニュースなどでも新型コロナウイルスが取り上げ続けられますと(勿論、大切で大事な話題なので構わないのですが)、

 

感覚(感性)の麻痺が引き起こされていく

 

という現象にも繋がっていきます。
これは、「(感染者などの)数字」が、いつの間にか「記号」に取って変わられるという感覚(感性)も勿論ですが、ニュースなどでは、重症化の患者さんの治療における、ECMO(エクモ:体外式膜型人工肺)や人工呼吸器などがクローズアップされがちですが、中等症における患者さんでの酸素吸入などは、どちらかと言えば安易に捉えられている感も拭えないように感じます。

この酸素吸入においても、その酸素濃度が高くなるにつれて、脳出血等のリスクは高まるのも事実です。
現場の医療従事者の方々は、善意の心から徒(いたずら)に不安や怖れを煽らないようにとの配慮も含めた上で(このようなリスクには敢えて触れずに)、当初から検査数の拡大なども含め、様々に大きな声を上げ続けて来ている面は、重々に受けとめる必要性があるかと感じます。

そして、この先に向け、感覚(感性)の麻痺を引き起こさない為にも、

 

自暴自棄(投げやり)にならない!!!

 

という心掛けはとても大切になってきます。
そして、ここ1~2年、このTOPICSにおいては耳にタコが出来る位、「繋がり」と「重なり」、そして「(過度な)二者択一に陥らない」点などを強調してきました。
例えば、

 

自分はウイルスに感染したくない → 自分が感染しなければ他の人にもうつらない → 結果、他の人が感染しなければ自分にもうつらない、、、

あるいは・・・

他の人にウイルスをうつしたくない → 自分が感染しないようにする → 結果、他の人にもうつらない、、、

 

という、一見すると(利己主義と利他主義という)自己矛盾のような「二者択一」に感じられるかもしれませんが、どちらを出発点としても、目的達成を可能にする「繋がり」と「重なり」を循環する視点(現実)が創造されていきます。
そして、これも幾度もお伝えしております通り、

 

成長(という変化)は螺旋(らせん)状に進んでいく

 

というのも同時に達成する事が可能となっていきます。
そして、

 

私達人間のDNAも・・・

二重螺旋構造

 

です。
そして、創造の「源」は「3」、ともお伝えして来ておりますが、この「3」には様々な側面があるのも事実ですが、私達が身近に出来る「3」というのが、

 

「思い」「言葉」「行動」

 

であるのは、このTOPICSを継続してお読みになって頂いている方々におかれましては、もうお分かりかと思います!!!

そして、外出などの自粛要請が続き、誰もが自らの(特に)行動を「律する」必要性がある今、もし宜しければ、「心の軸」という今回の視点も含め、2019年11月23日のTOPICS『 急がば回れ・・・誰にでも可能な「丁寧」という視点 』を、今一度読み返してみて下さい、、、

ちなみに、有り難い事にここ迄お読みになって頂いた皆さんにおかれましては、前回の前半と今回の後半に分けた「理由」にご納得頂けた事であろうかとも思います(笑)