【 第二段階:「怒り」について 】
否認という第一段階がもはや維持できなくなると、怒り、憤り、羨望、恨みなどの諸感情がこれにとって代わる。
論理を追って、つぎの問いは、 ” なぜ私を? ” である。
(中略)
否認の段階とは違い、この怒りの段階は、家族およびスタッフの立場からしてじつに対処がむずかしい。
それは、この怒りはあらゆる方向へ向けられ(転移)、ときとしてほとんどデタラメに周囲環境へ投射されるからである。
(中略)

ここでの問題は、患者の立場になって考え、この怒りがどこから来るかを考えようとする人がきわめて少ないということだ。
たぶんわれわれ自身も、われわれの活動がまだ仕終わらないうちに中断されたら、怒るだろう。
建てはじめたビルディングが、未完成のままわれわれの手を放れなければならなくなり、代わって他人が完成することとなったら、怒るであろう。
もしわれわれが旅行や趣味の追求など、休息と慰安の数年を楽しむために働いた金をコツコツと貯めておいたのに、いよいよのときになって、「 それは私のことじゃない 」と否認しないではいられない悲劇的な事実をつきつけられたらどうであろうか?
(中略)
この時期では患者はどこへ眼を向けようと、見いだすものことごとくが不平不満のタネである。
(中略)
悲劇はたぶん、わたしたちが患者の怒りの理由を考えず、それがほんとうは怒りの対象となっている人たちとはなんの関係もないのに、個人的に、感情的に受けとるところにあるのではないだろうか。
スタッフあるいは家族が、患者の怒りに対して個人的に反応すれば、患者の怒りに油をそそぎ、その敵対態度を増させるだけである。
スタッフあるいは家族は回避をするだろう。
訪問あるいは見回りを短くするだろう。
あるいはまた、問題がまったく別のところにあることを知らず、自分の立場を擁護するため、患者と無意味な言い争いをするようになるだろう。

【 第三段階:「取り引き」について 】
第三段階である取り引きの段階は、あまり知られておらず、かつまた期間は短いが、患者にとって同じように助けとなる。
もしわれわれが第一段階で悲しい事実に直面することができず、第二段階で人々と神とに対して憤りをぶつけたとすれば、つぎには、人々ないし神に対してなにかの申し出をし、なんらかの約束を結ぶことを思いつくだろう。
取り引きである。
神となんらかの取り引きができれば、もしかすると、この悲しい不可避の出来事をもうすこし先へ延ばせるかもしれない、と。
(中略)
患者は過去の経験からして、よい振る舞いをすればそれだけの報償があり、特別サービスへの願望がかなえてもらえる、かすかなチャンスがあることを知っている。
特別サービスへの願望とは何か。
それはほとんどつねに延命の願望である。
延命願望のつぎに大きいのは、痛みと肉体的不快のない日があと幾日か欲しいという願望である。
(中略)

たいていの取り引きは神とのあいだになされ、ふつう秘密とされるか、言外にのべられるか、でなければ牧師の私室にしまいこまれる。
外に聴者のいない患者とわたしたちだけでのインタビューでは、驚くほど多数の患者が、多少の延命と交換に、 ” 神に生涯を捧げる ” 、あるいは ” 教会への奉仕に一生を捧げる ” 約束をした。
わたしたちの患者の多くはまた、(もし医師がその科学知識をかれらの生命を延ばすために使用してくれるならば、)肉体の一部を ” 科学 ” に与えてもいいと約束した。
(中略)
こうしてわたしたちは患者の心の悩みを探り続け、患者の不合理な恐怖感、あるいは罰せられたい願望を解放してやるようにする。
この不合理な恐怖感や罰せられたい願望というのは、二度三度と取り引きをくり返すことによって、また ” 期限 ” がきても約束を守らず、それによって過度の罪責感が強まる一方となり、そのため生じてきたものなのである。
