後半:心の軸を保つ ~E・キューブラー・ロス氏とPCIT(親子相互交流療法)から~

次は、第四段階の「抑鬱(うつ)」についてです。

《 第一の抑鬱 》
『 末期患者がもはや自分の病気を否認できなくなり、二度三度の手術あるいは入院加療を受けなければならなくなり、さらに症候がいくつか現われはじめ、あるいは衰弱が加わってくると、かれはもはや病気を微笑で片づけているわけにはいかなくなる。

  かれの感情喪失、泰然自若、あるいは憤怒などは、ほどなく、大きなものを失くしたという喪失感取って代えられる。 』

 

『 患者を扱うものならだれでも、こうした抑鬱の原因はきわめてよく知っている。

  わたしたちがともすれば忘れがちなのは、末期患者が世界との訣別を覚悟するために経験しなければならない準備的悲嘆である。

  この二つの型の抑鬱を区別するならば、第一の抑鬱を反応抑鬱、第二のそれを準備抑鬱とわたしは称(よ)びたいと思う。
  第一のものは第二のものとは性質が異なり、まったく違う扱い方をしなければならない。

  ( 《 第一の抑鬱に対し 》 )思いやりのある人ならば、抑鬱の原因を探りだし、抑鬱にしばしば伴う非現実的な罪責感や羞恥感をいくぶんでも軽くしてやることはさしてむずかしいことではない 』

 

《 第二の抑鬱 》
『 第二の型の抑鬱は、過去の喪失からではなく、さしせまった喪失を思い悩むことから生じる。

  悲しみに沈む人に対してわたしたちの最初にすることは、気を引き立て、物事をそう暗く絶望的に見ないようにいってやることである。
  生の明るい側を、かれらをとりまく、色彩のあふれた、積極的な事物をみるようにとすすめる。
  だがこれは多くの場合、わたしたち自身の要求の表現でもある。
  長期にわたって、悩み打ち沈んだ顔を見るのに耐えられないからである。

  末期患者に見られる第一の型の抑鬱を扱うにも、これは有効なアプローチとなり得る。

  (中略)

  患者はいま、その愛する一切の事物、一切の人々を失おうとしている。
  だから患者に悲しみを表現することを許してやってこそ、かれは最終的受容がはるかにやりやすくなるのである。
  この抑鬱段階のとき、悲しむなとしつこくはいわず、ただ黙ってそばで掛けていてくれる人たちに、患者は感謝することができるのである。

  第二の型のこの抑鬱は第一の型とは違い、ふつう静かな抑鬱である。
  ( 第一の型では、患者は他人と分けもたなければならぬものがひじょうに多く、各種の医療関係者側からのひんぱんな話しかけ、積極的な干渉をすら必要とする )

  準備型の悲嘆では、言葉はまったく、あるいはほとんど、いらない。
  悲しみは患者と訪問者との両方から表現される感情であり、ことばによらず、むしろ手を握るとか、髪をなでてやるとか、でなければただだまってそばにすわっているだけのほうが、ずっと望ましい

  患者は、後に残す物事よりも、眼前に迫る物事への関心を集中しはじめる。
  この時期には、訪問者の患者の気持ちを引き立てようとする過度の干渉態度は、患者の情動的準備を押しすすめるよりは、妨げる場合が多い

  (中略)

  患者の願望と準備とが一方にあり、他方には周囲の人々の万一の期待と努力がある、そのくい違いが、多くの場合、わたしたちの患者の心のなかに深刻な悲しみと動揺とを来たさせるのである。 』