「死」に「理由」が必要ないのであれば・・・
「病気」などの「理由」を創り出す必要性もなくなるのでは・・・
との考えも導かれる事になります。
そして、
「病気」などの「理由」が必要なくなる事により・・・
健康で元気な状態で「寿命」を全うし・・・
「明日、旅立つけど、今迄ありがとう! 急がないけど、また再会を楽しみにしているよ!(笑)」
などのような、(一時的な)お別れの挨拶を交わす事も可能になる・・・かも?
との流れもあり得るかもしれません。
いかがでしょうか?
突拍子もない、頭のオカシイ見解と思われているかもしれませんね(笑)
では、少し視点を変えて、私達の意識あるいは心、はたまた魂や何と呼んでも構いませんが、それと現実世界との関係性を見ていきたいと思います。
一般的に、つまり、集合的無意識においては、
現実世界の中の一部(部分)として私達の意識は存在している
と解釈されています。
表現を変えると、
現実世界が「主」であり、私達の意識は「従」である
とも言えます。
そして、同じような集合的無意識に、意識という言葉ではなく、魂という言葉を当てはめると、次のような表現になります。
私達の肉体の中に魂が存在している
と。
勿論、魂という言葉を、心という言葉に置き換えても同じ意味です。
そして、これには別の見解も存在しています。
それは、
私達の意識の一部が反映されているのが現実世界である
と。
そして、これも表現を変えると、
私達の意識が「主」であり、現実世界は「従」である
と。
そして、これにも魂、あるいは心という言葉を当てはめてみます。
すると、
現実世界とは私達の魂(心)が反映されている表現の一部である
と。
つまり、
私達の魂(心)が現実世界を創り上げているのであって・・・
肉体の中に魂(心)が存在しているのではなく・・・
魂(心)が表現している一部が現実世界や肉体である・・・
と。
少し難しい面もあるかもしれませんので、別の例えも活用してみます(笑)
一般的な集合的無意識においては、よく次のような表現がなされます。
車が「肉体」であり、運転手(人)が「心(魂)」
と。
しかし、別の観点からでは、
ラジコンやミニカー遊びのように、「車(肉体)」を操作している人が「心(魂)」
と。
イメージは掴めましたでしょうか?(笑)
一般的な集合的無意識における視点とは、ほぼ真逆のようにも感じますが、実は、このような意識が「主」であり、意識が現実世界を創り上げているというのは、
先ほどの最先端の科学においても同じように解釈されつつあり、このような今迄とは違う視点が研究対象となって来つつある
というのが、現状の進行具合でもあります。
また、「時間や空間も幻想では?」という着眼点も同じように含まれています。
それが、現状では「現実と思われている世界も・・・実は幻想なのでは?」というテーマに発展しつつあるという意味合いです。
それでは、ここでもまた視点を変えてみます。