200回目のTOPICS ~ 「死」に「理由」は必要か? ~

それは・・・残された人達にとっての、「納得」という癒しや慰めとして・・・

 

と感じます。
幼い頃に「寿命」を迎える場合は別としても、私達の多くは自らの「死」を迎える前に、他の人の「死」を経験させて貰っています。
そして、明白なご病気などでの突然死は別としても、昨日迄はいつも通りの元気で健康な状態で過ごしており、朝起きたら「死」を迎えていたというケースでは、社会的には検死(検視)などが必要になるケースが多いです。
そして、

 

社会的とは・・・集合的無意識から産み出されているもの

 

でもあります。
勿論、私はいかなる時でも検死(検視)は不要だと考えている訳ではありません。
犯罪に巻き込まれた結果というケースを見落としてしまう場合も出てきてしまう怖れもあるからです。
つまり、ここでの集合的無意識においては、

 

社会的に見ても・・・「死」に「理由」は必要である・・・

 

との強固な考えが存在しているという側面の一例です。
そして、あなたの身近な方が、昨日まで健康で元気に過ごし、仮に検死(検視)などで病気の原因が見当たらないと判断された時、

 

どうして・・・???

 

と思われる事と感じます。
そして、「死」の「理由(原因)」が判明しないならば、

 

どうしても・・・その方の「死」に「納得」がいかない・・・

 

と思い詰めていくかもしれません。
そして、私は先ほど、多くの方が他の人の「死」を経験させて貰っている、とお伝え致しましたが、そのような経験を経て「死」に対する様々な感情を理解しているからこそ、

 

自らの「死」においても・・・残された人達の「納得」の為に・・・「理由」を創り出そう・・・

 

と考えても不思議ではないようにも感じます。
しかし、仮に自らで「寿命」を決めてきているのであれば、

 

わざわざ・・・

ご本人にとっては、その「寿命」を全うするための「理由」を創り出す必要性は・・・

無いのかもしれない・・・

 

と捉える事も可能ではあります。
なぜなら、

 

「死」に「理由」が必要なのは・・・ご本人ではなく・・・残された人達の(「納得」)の為に必要・・・

 

と捉える方が理屈にも合うからです。
そして、

 

集合的無意識とは・・・

生きている人の意識の集合体でもあるが・・・

「死」を迎えた人も、生きている時には・・・

同じ集合的無意識の一翼を担っていた・・・

 

のが自然な事でもあります。
そして、繰り返しですが、犯罪や事故などの「理由」は別としまして、