200回目のTOPICS ~ 「死」に「理由」は必要か? ~

自分が信じていると思われる事柄が・・・

自分で考え導き出したものでは無いにも関わらず・・・

それに唯々諾々と従う事に慣れてしまい・・・

それが故に・・・

本来の自分自身を見失ってしまっている・・・

 

という側面が肥大化してきているようにも感じられます。
そこで、これから書き連ねていく内容は、スピリチュアルな視点も含まれますが、この視点の多くが、現在の科学においても最先端として研究されている分野と、かなり多くの点が「重なって」います。
つまり、今迄であれば空想的や妄想的、あるいは、時には現実逃避として使われてきていたスピリチュアルな見方の部分と、現在の科学の研究分野の向かっている先が、

 

次第に一つの同じ道として接し(近づき)つつある

 

という傾向をも踏まえたものです。
そして、信じる信じないも皆さんの全くの自由ですし、善し悪しという問題でもありません。
どのように捉え、そして、それを踏まえ、人生においてどのように取り入れていくのかを判断するのも、皆さんの全くの自由です(笑)

 

では、進めて行くに当たりまして「寿命」という概念がまず必要になります。
現在の所では「寿命」を計測出来る機器類も存在しておりませんし、ある一定の長さの人生を過ごせた人が「死」を迎えれば、それを良い意味での「寿命」と見なされたりしています。
別の表現では、「大往生」や、時には「老衰」と呼ばれたりもしています。
そして、この世では、九死に一生を得る、あるいは、絶体絶命の危機から脱する事が出来た、などの事象は確かに(結構多く)存在しています。
これは、よく、

 

奇跡

 

と言われたりもしております。
そして、最新の人体の研究分野などにおいては、

 

人の肉体は200年程度は保つ事が可能

 

という見解も見受けられたりしています。
ちなみに、今回のテーマとは全く別の観点ですが、現在では、実際にご遺体(の全部または一部)を冷凍保存している施設も存在しておりますし、このような趣旨の遺体保存というのは、個人的にはエジプトのピラミッド時代と同じ死生観(再び自分の同じ肉体に宿るために保存する)から来ているものと考えます。
そして、スピリチュアルな分野では、

 

「寿命」は自分で決めてきたもの

 

という捉え方がされております。
ただ、決めてきているとは言っても、〇〇年〇〇月〇〇日まで、というように正確無比に決めてきている訳ではありません。
あくまで目安ですので、(多少の)幅という余地は残されております。
また、この「寿命」という意味合いには、集合的無意識における「時間」という概念の違いも関係していると考えられますが、それはまた別の機会に考えてみたいと思っております。
そして、「寿命」は自分で決めてきているというのは、「寿命」が来るまでは「死」を迎えない、とも言えると同時に、

 

犯罪や事故などにおける「死」はどういう事なの?

 

との疑問も当然出てきます。
この点に関しては、実際の被害者の方やご遺族の方などの心情を踏まえますと、私も迂闊に表現出来ないとの思いや考えもあります事と、言葉通りの真正直に認めてしまえば犯罪などを助長・肯定するような見解にも捉えかねられない・・・運命は変えられない・・・などの、今回のテーマとは真逆の趣旨にもなりかねませんので、この先をお読み頂いて、皆さんなりに考えて頂く事が大切な事と思います。
ただ、自殺は別です・・・「寿命」ではありません・・・

 

では、何歳でも構いませんが、皆さんが自分の「寿命」を決めてきていると考えた時に、犯罪や事故はひとまず脇に置いておくとしまして、あなたは、

 

「死」を迎える際に、何か「理由」は必要であると考えますか・・・

健康で元気な状態で「死」を迎える事は不可能な事だと考えますか・・・

あるいは、

健康で元気であるならば「死」に至る事はないので、やはり「理由」が必要であると考えますか・・・

 

では、「死」に「理由」が必要であると仮定した場合、

その「理由」は「誰」にとって必要なものなのでしょうか・・・

 

・・・ここ迄で、皆さんはどのように考えましたでしょうか(笑)
私個人としては、仮に「死」に「理由」が必要な場合を考えるならば、