【 ダムという権力による支配 】
二風谷ダムが建設された《 経緯と背景 》に、沙流川の水源を利用する為に工業基地建設の構想が持ち上がります。
そして、1973年に「2つ」のダムの建設の実施計画調査が開始されますが、正さんは真っ向から反対していきます。
と言うのも、ダムの建設予定地にはアイヌの人達が「チノミシリ」と呼ぶ神聖な場所があり、そこでは鮭の漁を祈願するお祭りなども行われているからです。
更に、ダム建設当時の二風谷ではアイヌにルーツを持つ人達が350人ほど暮らしており、その人達の耕している田畑がダムの水没予定地にされてしまったからです、、、
(※ 画像はイメージで二風谷ダムではありません)
しかし、この土地に住んでいたアイヌにルーツを持つ人達の多くが借金を抱えていました。
これが先程の「同化政策」によるものです、、、
故に、土地の買収に応じざるを得なくなり、この時に土地を売らなかったのは貝澤さんを含めた2軒だけでした。
そこで、正さんと耕一さんは国と北海道を相手にダム建設の反対を訴え続けます。
しかし、貝澤さんの土地も強制収容されてしまい、ダムの建設を止める事は出来なくなってしまいました、、、
当時を回想した耕一さんの言葉が次のものです。
耕一さん:
『 一番は何で二風谷がイジメられなきゃいけないのだと。 その根本にはアイヌが多いから、それで皆、経済的に苦しいから金で何とかなるだろうとの国の考え方。 それが気に入らないんだよね。 』
【 破綻しても続けられるダム計画 】
耕一さんは1993年に北海道を相手に裁判を起こします。
しかし、ダムの建設工事が止められる事はなく、1996年に試験湛水が始まります。
ただ、この時《 既に 》工業基地構想は破綻していて、工業用水の必要性も無くなっていたにも関わらず、ダムの建設工事は続行されていきました。
この工事によりアイヌの人達が神聖な場所として来た「チノミシリ」も破壊されてしまいます、、、
正さんは文章で次のように綴っています。
正さん執筆の「私の想い」より:
【 私の八〇年の生涯は川向いの土地と共にあった。 先祖のエカシ(長老)達が狩猟から急激に転向を迫られ、馴れない農耕に苦しんだ百余年の足跡をしのぶと共に文明への怒りがこみあげてくる。 金がもうかるからと自然を破壊しそこに住んでいた者を排除しても平気でいる文明社会を憎む。 ダムが完成して潭水(たんすい:満たされる)されるまで私は生きながらえるかどうか予想はつかないが、その時に私は先祖の残してくれた大地に小屋を建て湖水の底の人柱となる決心を固めている。 そうでもしなければ先祖の所へ行って何とも弁解しようもない。 】
【 一筋の光明と破壊 】
そのような中で、一筋の光明も見え始めていきました。
1997年の札幌地裁で「ほぼ完成していたダムの存続は認めるが、アイヌ文化に配慮せず押し進められた土地の収容は違法である」との判決が下されます。
それと同時に「アイヌは先住民族である」という日本で初めての司法判断が下され、それが確定しました。
しかし、時を経た2022年には二風谷ダムと同時に計画されていた、もう一つの平取ダムが「工業用水は不要であっても治水は必要だ」との名目で沙流川上流に建設されました。
ダムの管理や維持や関連事業により町には多くの雇用が生まれました。
しかし、この時もダムの建設の為に「チノミシリ」は破壊されました、、、
しかも、アイヌの人達の神経を逆なでするかの如く、壊した箇所に見かけ上は自然な崖に見えるような張りぼて(等身大のジオラマ)が造られ、現在では既に継ぎ目の裏地も見えているような代物になっています。
この光景を見ながらの耕一さんの言葉が次のものになります。
耕一さん:
『 要するに日本政府に壊された精神文化の象徴になるのでね、、、 』
【 乱伐が引き起こす未来 】
ダム建設の反対運動と共に、正さんは周りの山々が開発と称し乱伐されているのを危惧します。
そこで、自らで借金をして周囲の山を購入し「200年は伐採してはならぬ」と言い残していました。
それについての晩年の正さんのインタビューが残っています。
正さん:
『 借金して家内に怒られながら、やっぱり出来るだけの事を、口ばっかりじゃダメだからね、自分でやれる範囲内の事をやって、これを楽しんで死んでいこうかなぁと思ってる。 いい夢でしょう(笑) 』
そして、山の管理を引き継いでいる耕一さんも次のように話しています。
耕一さん:
『 アイヌは木は大地を支えるって言ってるんだよね。 何故、大地を支えるかと言うと、木の根と根が絡み合って大地を壊す事を防いでいる。 (中略) 木を見てるとゆっくり育って、ゆっくり太くなっていくでしょ。 人間は急ぎ過ぎるんだ、、、 』