中編:コロナ禍も1年経ったが・・・ ~今後の為の振り返り(省り)~

○ 『 新しい生活様式を潜在意識と魂の視点から眺めてみる 』2020年5月30日掲載

この新しい生活様式に関しては、おそらく、今少し終息までの間は、出来る範囲内でやっていこう、との思いをお持ちの方も多い事かもしれません。
そして、そのように出来る範囲内でやっていこうとの思いをお持ちの方の「心の中」では、一方で、この新しい生活様式を「定着」させていく(そのようにしなければならない)のは嫌だし、とても大変だ!と思われている方も多いかと感じます。

今回のテーマの趣旨というのは、《 元に戻して良いものもあれば、元に戻してはダメなものもある、なぜなら、同じ事が繰り返されるから 》という点にあります。

《 「物理的」な距離感は「心理的」な距離感にも、必ず影響を与えている(与えてくる) 》

 

今回のウイルスの影響においては、「経済(活動)」を取るのか?「命(を優先)」を取るのか?などの、これもまた「過度な二者択一」に陥っているようにも見受けられます。
「命(を優先)」を取る事だけに傾いてしまうと、「経済(活動)」を行えず生活出来なくなる(生きていけなくなる)面があるのも事実です。
ただ、この「お金」というのは、例えば、石油や天然ガスなどのように、限りある地球の資源ではなく、あくまで、交換手段として「人間が作りだした物」であります。
全世界と言っては大げさかもしれませんが、この「お金」という視点に関して、ほんの少しでも何かに気づく人が増えてくれば、このような「過度な二者択一」という問題は起こらなくなります。

 

ちなみに、、、とは見過ごせない点ですが、休校要請の影響などにより九月入学などの話題も出ておりますが、これにも様々な意見があり、ちゃんと腰を据えて取り組むべき課題でありますが、政治家などの発言の中には、半年卒業が遅れる事で生涯賃金の内の100万円ほどを「損する」、また、この先の国を背負って貰うのだから子どもに「投資」すべきだ、など、、、子どもや教育というのは、「値上がり」や「損得」や「相場」などの対象であり存在なのでしょうか、、、それ以前に、大人がこのような考えや発想しか出来ないようであれば、それこそ(皮肉を込めて)「元を取る」前にこの国は潰れてしまう事と感じます、、、

 

「私の潜在意識と魂の視点」から整理してみますと、《 (新しい生活様式に)迷った時は、「過度な二者択一」に陥ってないかを確かめ、全ては「コミュニケーション」に行き着く側面に繋がっており、それらをまとめ上げる「源」となっているのが「真の動機」 》である、という風に私には映っておりますが、宜しければ、このような視点も活用してみて下さい。
そうすると、《 自ずと、何が元に戻して良いもので、何が元に戻してはダメなものか 》があなたなりの身の回りの日常において、気づきを得て、そして活用する事が出来るようになっていきます。

 

『 他の人は「自分」を映す鏡 』『 悩みなどが深くなるにつれて、「鏡で自分の顔を見られない」という現象 』とコメントしたのは、《 憑依をされている側(人間)は、魂の上で(憑依)に気づいているが故に、その姿を自らで見たくないが為に、鏡を見なくなる 》《 憑依をしている側(存在)は、憑依をしている事に気づかれたくないが為に、鏡を見ないように仕向ける 》という、言葉は不適切ですが「共同作業」を行ってしまっているという現象です。
ここが、繰り返しですが、《 物事や課題に向き合う(対峙する)などの言葉にもあるように、「真正面」から向き合うというのが本来の「姿勢」 》という点を強調している所以にもなっています。

「反映」という視点から学び取ろうとするならば、それは《 私達(世の中や社会の仕組み)は・・・本当に多様性というものを・・・理解し・・・受け入れようとしていますか・・・ 》との問い掛けにもなっています。

 

以上のような概要です。
この回におきましても、魂の視点のみならず、敢えて「憑依(現象)」というものも活用致しました。

そして、「新しい生活様式」という言葉は、行政の記者会見の場などでも背景に描かれていたり、マスコミ等においても「猫も杓子(しゃくし)も」の如く垂れ流されていたのが当時の実状です。
まるで、「口当たりの良い」キャッチコピーでもあるかのように使われてもおりましたが、「今という現状」においては如何でしょうか、、、目にし耳にする機会はありますでしょうか、、、

また、「九月入学」という話題も一時期は脚光?を浴びましたが、これもその後はどうなったのでしょうか、、、
これらもまた、「一時の流行」だったのでしょうか、、、

 

そして、時短要請や休業要請に伴う補償金等におきましも、長い間「過度な二者択一」が当てはめられ、未だに『 物事や課題に向き合う(対峙する)などの言葉にもあるように、「真正面」から向き合うというのが本来の「姿勢」 』というのは実現されておりません。

当時のこの頃の状況は、所謂、「躁鬱(そううつ)状態の繰り返し」とでも呼べるような、より「理性」が忘れ去られ、「異様なテンション状態」の始まりでもあります。
まるで、注目を集めたいが為だけの、人気取りとも呼べるような「言葉遊び」も含めた、、、

そして、素直に「終息(収束)までの一時の様式(行動)」と伝えれば良かったものを、「新しい」などと言葉のすり替えに「酔ってしまった」が為に、逆に「本末転倒」や「混迷(困惑)」の状況や「感情」をもたらしてしまい、この辺りから、誰かや何かのせいにしようという「責任転嫁(責任のなすりつけ合い)」も始まっていった頃合いです、、、 が、しかし、今のままで進んで行くのであれば、残念ながら今後はこの傾向に益々拍車が掛かっていく事でしょう、、、