モーゼの十戒を魂の視点で眺めてみる(笑) ~日常生活での実践が大切で必要~

「誰が」伝えているかではなく・・・

伝えられている「内容」に着目する事が大切となる!

 

SNSなどの普及により「情報過多」の時代です。
情報を「取捨選択」し、真偽を「見抜く目」を養い、時には「近づかない」という事も含め、より「考える」事が必要な時代になっているという事です。

 

では、今回も長くなってしまい申し訳ございませんが、そろそろ締め括りに入って参ります!
映画などでご存じの方もいらっしゃるかと思いますが、モーゼは神から2度のメッセージ(石版)を授かっておりました。
と言うのも、元々は人々(民衆)が神からのメッセージを聴く事を怖れ、モーゼに代表として神の声を聞き届けて貰うようお願いしました。

そこでモーゼは山頂に向かい、神からの石版を携えて戻って(下山して)来たのですが、すると人々(民衆)は(金の子牛の)偶像崇拝をしていた事に加え、まるでモーゼの「存在」を忘れたかの如く飲み食い踊りの騒ぎをしていました。
それに対しモーゼは怒って1度目の石版を自らで叩き壊してしまったと言われております。
これも先ほど出て参りましたが、最近顕著に見られるようになっている、

 

全ては「他人(の)事」という姿勢

 

に現れております。
また、数年前から言われるようになって来た「今だけ 金だけ 自分だけ」との言葉にも現れております。
そう考えると、現代の私達(人類)というのは、、、昔と変わっていない、、、それどころか、、、劣化している、、、と私個人的には思えてしまう節が周りに溢れているように感じておりますが、、、

そして、今回の十戒というテーマからは、この戒律を破った際に行われる「裁き(裁く)」というのが「表裏一体」のテーマともなります。
そして、イエス・キリストは次のような趣旨の言葉を残しております、、、

 

(他の)人を裁くこと勿(なか)れ・・・

なぜなら・・・

自らもまた裁かれることになるのだから・・・

 

と。
そして、

 

叱るは「理性」・・・怒るは「感情」・・・

 

というのがあります。
これは、叱るは「叱咤激励」であると同時に「(最小限の)逃げ道」も用意して上げる事を意味しますが、怒るは「喜怒哀楽」であると同時に相手を「(過度に)追い込んでしまう(怖れがある)」事もあるからです。
勿論、これも「100%どちらか(理性か感情か)」という性質でも問題でもありません。

 

イエス・キリストにおいても、神の住まう神殿の目の前で、神の名を過度に利用し、自らの莫大な利益のみを追求していた両替商に怒り、その店を叩き壊したなどの話もあります。
これは、例えば、悪質な交通事故や犯罪に遭われた被害者の方やそのご家族等におきまして、哀しみ(悲しみ)を感じたり、加害者の方に怒りなどの感情を抱くのは自然なものでもあり、それを止(や)めるよう示唆したものでもありませんし、駄目なものはダメ!!!という姿勢を保つのも大切で必要なものです。
ただ、最近の世の中や社会の兆候を私なりに眺めていると、