「区分け(例えば言葉)」の種類や方法は様々であろうとも・・・
そこで行われる(現れてくる)「本質」は・・・
誰もに当てはまってくる・・・
という事も「真実」に肉薄しているものでもあります。
そして、
「意思」と「言葉」とでは・・・
「言葉」より「意思」の方が・・・
「奥行きと深み」が備わっている
というのは「事実」です。
聖書では『 始めに言葉ありき 』という「言葉」もありますが、「言葉」で「認識」が可能になるのも事実ですし、「言葉」が無ければ「意思(思い)」が存在しないという訳では無い事も実感としてご理解頂けるかと思います。
つまり、ここでも「(過度な)二者択一」ではないし、「鶏が先か?卵が先か?」でも無いという事です(笑)
そして、今回の例に沿って、これもあくまで大雑把な整理を敢えて活用致しますと、
「思い」 = 「感情」
「言葉」 = 「悲しみや寂しさなど(の表現や術)」
「行動」 = 「泣く」
という風にも現す事が可能かもしれません。
なお、これも誤解があってはいけませんので、「悲しい」から「泣く」というのが「自然で当たり前」という訳ではありませんのと、それが最初にコメント致しました『 人の数ほど(それ以上)存在しています 』に「反映」されてきます。
そして、このTOPICSでも繰り返しお伝えしております、
「思い」と「言葉」と「行動」に意識を向けるという真意の一つには・・・
このどれもが「繋がって」「重なって」いるからであり・・・
「繋がり」と「重なり」を意識から抜け落としてしまうと・・・
「本質」から逸れ(外れ)やすくなり・・・
が、しかし、
「繋がり」と「重なり」をほんの少しでも意識に入れておくと・・・
自然と(極端に言えば勝手に)「本質」に引き戻してくれる・・・
という仕組み(法則)があるからです。
そして、比較的多い傾向と致しましては、
「悲しみ」は「他者(への思い)」が「反映」されている事が多く・・・
「哀しみ」は「自己(への思い)」が「反映」されている事が多い・・・
とも言えます。
「哀しみ」では、「哀愁」漂うなどの使われ方もありますよね(笑)
つまり、