コロナ禍の(お盆時期の)供養から「今」を考える ~魂の視点も含め~

その「今(という瞬間)」をどのように過ごすのかは・・・

「自由意思」に任されている・・・

 

というのが、個別に違う面となってきます。
そして、

 

「自由意思」とは「言葉」を変えると・・・

「考える力」を養う為に与えられているもの・・・

 

とも表現出来ます。
そして、あの世では病気も怪我もウイルスも存在しません。
また、あの世で交流出来るのは、自分と「境地」が似通っている人(魂)同士という、言わば制限(限界)があります

しかし、人(魂)それぞれ、長所もあれば短所もあるのと同様に、言わば「個性」の違いはあの世でも変わる事はありません
そして、

 

「境地」が似通っている、という点は・・・

「総合的」に判断される・・・

 

との見地からのものになります。
そこで、「今」という現状を考えてみて下さい。

 

この世では・・・

この「総合的」という「言葉」が・・・

「恣意的(身勝手)」に使われている・・・

 

という点です。
例えば、これらの事は「誰か」の「願望」を達成する為に「多数決」のみで決める、また、「誰か」の「欲望」を満たす為の「方便(や詭弁)」として使われてしまっている、という様々な面に現れて来ています。

そして、これを供養に当てはめてみます。
先ほどの流れ(ケース)のように、

 

供養の出発点は「(故人への)思い」

 

です。
そして、

 

その一連の流れが「繋がって」「重なって」・・・

巡り巡って・・・

「(自分の中の)思い」に「反映(創造)」されていく・・・

 

ものです。
そして、「(故人への)思い」が出発点とすれば、

 

供養とは、どこでも、いつでも、誰にでも出来るものであり・・・

コロナ禍であろうと、普段であろうと・・・

「作為という行動」であろうと、「不作為という行動」であろうと・・・

変わりはない(同じである)・・・

 

という点に行き着きます。
そして、供養とは文字通り、「養う何かをお供えする」ものです。
では、