コロナ禍の(お盆時期の)供養から「今」を考える ~魂の視点も含め~

「思いの不作為という行動」・・・

つまり・・・

「無関心」が兆しとなって現れていた・・・

 

という点を読み取る事が出来ます。
そして、この「無関心」とは、「(行き過ぎた)○○ファースト」や「(過度な)自分本位」、はたまた「自分さえ良ければそれで構わない」、つまり昨年からよく見聞きする「今だけ、金だけ、自分だけ」という傾向が、特にここ数年来に掛けて蔓延(はびこ)ってきたのは、皆さんもお気づきの事と思います。
ただ、

 

「気づいて」いたとしても・・・

それから「目を逸らして」いなかったかどうか・・・

 

という「過去」が「今」に現れている(「反映」という創造)という視点は、「今から」でも遅くはありませんので、やはりお一人お一人が「考える」事が必要になってきます。
なぜなら、

 

その「考える」という「作為という行動」が・・・

「未来」での「何か」を創造(反映)していく・・・

 

からです。

では、コロナ禍における供養を眺めてみますと、帰省も出来ずに、お墓参りも出来ない状況により、業者さんにお墓のお掃除や、お供え物を依頼する件数も軒並み増大しているとのニュースも流れております。
勿論、「オンライン墓参り」も同様です(笑)

そして、私はこのようなケースは、「今だからこそ(希望的観測として、今しか出来ないからこそ)」活用してみても良いと思います。
なぜなら、

 

これらは一見すると「不作為という行動」に感じられ・・・

「作為という行動」とは真逆なように見受けられるかもしれないが・・・

どちらも「(故人への)思い」が出発点となっている!!!

 

からです。
故に、「逆もまた真なり」で、自分で行えないからと言って、誰かに(必ず)頼まなければならないというものでもありません(笑)

では、少し視点を変えまして、供養などでは「形式(儀式)」という面も活用されます。
そして、この「形式(儀式)」が意味する所は、

 

故人への「思い・言葉・行動」を・・・

あなたの中の「思い」を整理する為に・・・

誰でも可能な一般化した「智慧」として現して(表現して)いる・・・

 

という所に「本質」が存在しています。
そして、この事から、

 

「形式(儀式)」においても・・・

単に「なぞる」だけでは(ほとんど)意味を成さず・・・

そこに「思い」を込める事が大切になる・・・

 

という点もご理解頂けるかと思います。
では、更に魂の視点を飛躍させてみますと、

 

私達の誰もに共通しているのは・・・

いつかはあの世に戻る・・・

 

という大前提があります。
そして、

 

私達の誰もに「今」という瞬間(時間軸)が与えられている・・・

 

のも共通しています。
しかし、