コロナ禍の(お盆時期の)供養から「今」を考える ~魂の視点も含め~

自粛などの「不作為という行動」が現れている(そうせざるを得なくなってしまっている)のも・・・

「過去」からの「何か」が理由(や原因)となっているものであり・・・

「未来」ではその「何か」をどうするのか(どのようにしていきたいのか)???・・・

を含めた「何か」が「今」問われている(全てが「今」に掛かっている)・・・

 

という魂の視点が成り立ち得ます。
では、更に魂の視点を活用してみると、

 

あの世では時間も空間も存在せず・・・

あるのは「今(という瞬間)」だけであり・・・

あの世では「体(肉体)」は無く(必要性が無く)・・・

あるのは「思い(思念)」であるが・・・

この「思い(思念)」には「実体」がある・・・

 

という捉え方になります。
そして、あの世では「思い(思念)」が主であるという点から、

 

この世で特徴的なのは「言葉」の活用

 

になります。
しかし、

 

「今」は多くの場面で・・・

「言葉」が蔑(ないがし)ろにされ続けている・・・

 

のが「実態(実体)」です。
しかし、現状はそれどころか、

 

様々な場面で・・・

「説明」などをしない・・・

という「言葉」の「不作為という行動」が増大している・・・

 

というのが「真の実態(実体)」です。
そして、これがこのTOPICSでも幾度もお伝えしております、

 

「言葉」を裏切る人は・・・

「言葉」に裏切られる・・・

 

という「反映(創造)」となってしまう、という意味です。
そして、

 

コロナ禍では自粛などの「不作為という行動」が求められているが・・・

その実は・・・

それ以前からの「言葉」の「不作為という行動」が蔓延していた・・・

 

というのが、魂の視点からの、

 

物事は大なり小なりそれぞれを反映している

 

という点に結び付いていきます。
そして、先ほどの供養の流れ(ケース)からもお分かりかもしれませんが、「言葉の不作為という行動」の前に、既に、