語るに落ちる・・・ではなく・・・語らずとも落ちている ~無関心が生む不作為という行動~

「不作為」も「行動」の一種であると気づけないでいる内は・・・

「優しさ」や「思いやり」などにも気づき辛くなってしまう・・・

 

という「本質」と繋がっています。
「優しさ」や「思いやり」というのは「具体的な行動」にも勿論現れてきますが、例えば、

 

ギャンブルを行うためのお金を貸す

 

などは、本当の「優しさ」や「思いやり」には繋がっておりません(ちなみに、ギャンブルをする事を否定や非難をしている訳ではありません)。
このようなケースにおいては、

 

本人のためを思って・・・

お金を貸さない・・・という「不作為」の「行動」が・・・

本当の「優しさ」や「思いやり」となっている・・・

 

という面もご理解頂けるかと思います。
そして、このような「優しさ」や「思いやり」の根底には・・・「(相手の事を思う)動機」が脈々と流れています、、、、、
これは、別の表現では「見守り」や「寄り添い」においても同じ意味合いが含まれています。
そして、これは、

 

「具体的な行動」という目に見えやすい場合のみならず・・・

「不作為」という目には見え辛い「行動」に気づけるかどうか・・・

 

という視点の事でもあり、この視点を自分なりに気づいて活用していけるようになると、人生の幅や奥行きが深まっていく事と感じます。
なお、今回の政治家や官僚の「不作為」という「行動」は、「反面教師」としての素材でありますので、同じ「不作為」という「行動」においても、「天と地ほどの差がある」ことは、その都度のケース事に見ていく必要がありますが、その際の「指針」として活用出来るのが、マザー・テレサの、

 

『 愛の反対は無関心である 』

 

という言葉です。
ちなみに、私はキリスト教徒でもありませんし、無宗教でもありますのと、(今までも何度か)ご紹介したこの言葉は、実際にマザー・テレサが語った言葉ではないとの検証もされておりますが、あくまで「そのような趣旨を汲み取る」ことが大切な視点でありますのでご承知頂ければ幸いです(笑)
そして、今回のテーマになぞらえると、政治家と官僚の現在の対応においては、

 

「不作為」という「行動」(拒否や抵抗)を取っているという事は、「無関心」という事を意味しており・・・

詰まる所・・・

国民に対して「無関心」であり・・・

国民を「愛していない」・・・

 

と言う風に、超大げさ?に考えれば、「言い得て妙」?になるのかもしれません、、、、、
それと、ついでと言っては何ですが、今回のケースのみならず、ここ何度も続いている「語るに落ちる」の典型例もお伝え致します。
それは、様々な質問や疑念に対しては、

 

現在、調査及び検討中だから答弁を差し控える・・・

 

と答えていながら、その一方で、聞かれてもいない場合でも、

 

政府の関与は一切ない!

 

(調査も検討も終わっていないのにも関わらず)言い切ってしまえる?というのは、もう、「言わずもがな」である事もお察し頂けるかと思われます。
ちなみに、「詭弁(きべん)」の「詭」という字は、「危(ない)」+「言(葉)」という成り立ちです、、、、、
そして、それと同時に、