第618回:『 FIFAワールドカップの歴史から考える ~無用の長物は政治?政治家?~ 』
【 その他参照ワード:ペレ、マラドーナ、ベッケンバウアー、ドログバ、ベルンの奇跡、五月広場の母達 】
S.Light.M(カウンセリング・ヒプノセラピー・レイキヒーリング・各種セミナー&認定講座)の瀬川です!
現在、FIFA(国際サッカー連盟)ワールドカップ大会が開催されていますが、私はサッカーに詳しくありません(笑)
ところで、4年に一度開催されるワールドカップは、
世界最大のスポーツの祭典!!!
と呼ばれています!
そして、サッカーは、
子ども達の遊びも含め・・・
世界一の競技人口!!!
と言われます!

なぜなら、
ボール一つあれば・・・
皆でプレーする事が可能で・・・
言葉の壁もほぼ無い!!!
からです!
そして、競技人口が世界一とは、サッカーを通じて、
楽しさや喜びなどを含め・・・
お互いに理解し合える為の・・・
幅広く奥深い土壌が形成されている!!!
という事です!

では、番組『 映像の世紀バタフライエフェクト 』(NHK)から、「 熱狂が揺らした世界 FIFA ワールドカップ事件簿 」の回を少し眺めます!
【 ポジティブな裏切り 】
1930年、第1回大会は世界各地から13チームが参加し、ウルグアイで開催されました。
当時のウルグアイは南米の小国だったが故に、サッカーを通じて、
国の存在感を示そう
と考えました。
そこで、巨大スタジアムの建設に取り掛かるなど、巨額の出費を惜しみませんでした。
この熱意がワールドカップの招致に繋がった事に加え、ウルグアイは初代王者に輝きました。
そして、ワールドカップの未来像に関し、
《 小さく産んで大きく育てる 》になるとは・・・
「当時の」誰もが予想出来なかった・・・
つまり、「現在から」眺めると・・・
ポジティブな裏切り!!!
が起きたのかもしれません(笑)

【 忍び寄る政治・政治家の手 】
世界恐慌の余波が続く中、開催国が決まらない事態に陥りました。
すると、1934年、イタリア首相ベニート・ムッソリーニが手を挙げました。
しかし、
ムッソリーニの真の目的は・・・
ファシズムの力を世界に示す・・・
という思惑でした。
そして、
真の目的を果たす為の手段の一つが・・・
イタリアを何が何でも優勝させる・・・
という目論見でした。
そして、イタリアは順調に勝ち進むものの、
審判を買収しているのでは!?
との疑惑が持ち上がりました。

特に物議を醸したのが、準決勝のオーストリア戦です。
この時、イタリア選手がゴールキーパーと交錯し、こぼれ球をゴールに押し込みました。
このイタリア選手のプレーに関し、ファウル、あるいは、オフサイドでは!?と疑われたものの、ゴールの判定は変わりませんでした。
そして、この大会から、
本格的にラジオ中継が始まる
という、これ迄の大会とは一線を画す状況も生まれました。
そして、イタリアは優勝すると同時に、ファシズムを世界に示すムッソリーニの思惑も果たされました。
なぜなら、優勝から4日後、2年後にベルリンオリンピックを控えた、
ドイツ首相のアドルフ・ヒトラーが・・・
イタリアを初訪問しムッソリーニと会談した・・・
からです。
そして、同じくこの大会から、
スポーツをプロパガンダとして・・・
政治的に利用する手法が確立された・・・
と言われます。
ちなみに、ヒトラーはドイツ国民に向けた演説でも、ラジオ中継をプロパガンダとして大いに利用しました、、、

【 西ドイツのベルンの奇跡 】
1940年代は第二次世界大戦の影響で、2大会連続で中止になりました。
そして、1950年に再開されたものの、ナチの戦争責任を負った西ドイツは参加を認められませんでした。
1954年、戦後2度目となる大会がスイスで開催されました。
そして、決勝に進んだのは西ドイツでした。
そして、相手は4年間無敗を誇るハンガリーです。
試合開始早々、ハンガリーが2点をリードします。
しかし、試合前から降り続く雨で、グランドコンディションは悪い状態でした。
そして、西ドイツのスタッフの一人にアドルフ・ダスラーがいました。
実は、ダスラーは後にスポーツメーカーとして有名になる、《 アディダス(adidas) 》の創業者です(笑)
ダスラーは試合に臨むに際し、グランドコンディションに応じて、スタッド(滑り止め)を自由に変更出来るシューズを用意していました。
また、キャプテンのフリッツ・ヴァルターは、イタリア戦線でマラリアに罹患して以来、暑さに弱くなった反面、雨と寒さの中で力を発揮する体質になりました。

こうして、グランドコンディションが更に悪化するにつれ、西ドイツが優勢になり、3対2で勝利しました。
そして、下馬評を覆す番狂わせは、決勝戦が開催された舞台にちなんで、
ベルンの奇跡
と呼ばれるようになりました。
そして、ドイツ人ジャーナリストは話します、、、
ジャーナリスト:
『 1954年7月4日(ベルンの奇跡)以降、これに匹敵する国民的熱狂の日が再び訪れたのは、1989年11月9日、ベルリンの壁が崩壊した日だけでした。 』
そして、西ドイツでは雨の日を《 フリッツ・ヴァルターの天気 》と呼ぶようになりました。
そして、凱旋パレードを見学していたのが、ヴァルターに憧れていた当時8歳のフランツ・ベッケンバウアーです。
そして、ベッケンバウアーは、
後のドイツのサッカー界を担う
ようになります。

そして、ベッケンバウアーは話します、、、
ベッケンバウアー:
『 戦後の苦しみの中で育った私達ドイツ人にとって、ベルン(の奇跡)は特別な意味を持っていました。 国全体が自尊心を取り戻し、誇るべき存在へと生まれ変わったのです。 』