【 敗戦が内政を変えた 】
一方、敗れたハンガリー国内では大きな動揺が生じました。
なぜなら、ハンガリーのチームは、
社会主義体制の成功を示すシンボル
だったからです。
故に、決勝戦での敗戦が、
国家への不信感に繋がり・・・
戦後初の民衆蜂起が起こる・・・
という事態を引き起こしました。
そして、この時の民衆蜂起が、2年後の1956年に勃発した、
ハンガリー動乱の前兆
と言われています。

【 ペレの影響力の凄さ 】
黒人への差別や偏見が根強く残る1958年、大会はスウェーデンで開催されました。
そして、ブラジルを初優勝に導いたのが、17歳の少年のペレでした。
そして、その後のペレは、3度の大会優勝を勝ち取った唯一の選手となりました。
そして、人気を博したペレはアフリカ各地を訪れ、サッカーの楽しさを大人と子どもの両方に伝えると同時に、貧困に苦しむ人々もサッカーに興じるキッカケを作りました。
更に、ペレの影響は、
アパルトヘイト(人種隔離)政策が実施されていた・・・
南アフリカにも及ぶ・・・
という流れになりました。

【 バトンが繋がれたネルソン・マンデラ 】
ペレの影響を受けた一人が、南アフリカにいた若き日のネルソン・マンデラです。
この頃のマンデラや政治犯は、監獄島と呼ばれたロベン島刑務所に収容されていました。
そして、マンデラは1964年から18年間収容され、自由を奪われ続けた事に関し、次の通り話します、、、
マンデラ:
『 私達がロベン島にいた頃、ワールドカップに触れる唯一の手段はラジオでした。 サッカーは囚人達にとって、ただ一つ、喜びをもたらしてくれるものだったのです。 』
そこで、1964年、囚人達は刑務所内でサッカーが出来るよう、看守と交渉を開始しました。
すると、2年後、刑務所内に8つのチームから成る、囚人達のサッカーリーグが設立されました。
更に、《 マカナ・サッカー協会 》と称した、独自の運営組織も設立しました。

そして、協会の設立に際し、刑務所内の図書室に収蔵されていた『 国際サッカー連盟(FIFA) 競技の規則 』を参考にしました。
なぜなら、当時のFIFAは南アフリカのアパルトヘイト政策を問題視し、憲章に以下の規定を設けていたからです、、、
FIFA憲章第2条(当時):
《 連盟は選手間の人種、宗教、政治的な差別を防ぐ事を目的とする。 》
そして、囚人達も『 マカナ・サッカー協会憲章 』を策定しました。
そして、その理由を元囚人が話します、、、
元囚人:
『 FIFAのルールに従ってサッカーをする事は、私達に希望を与えてくれました。 世界中の人々が当たり前のように楽しんでいるサッカーが、囚人達の心を支え、輝きをもたらしてくれたのです。 』
そして、マンデラを筆頭に刑期を終えた元囚人達は、
後の国の未来を担うようになる
という流れになりました。
そして、半世紀後、南アフリカでワールドカップも開催される出来事に繋がりました。

【 分断を煽った東西ドイツの初対戦 】
1974年、大会は西ドイツで開催されました。
そして、分断されていた西ドイツと東ドイツが同じグループとなり、初対戦の流れになりました。
ただ、試合を行う為には、東ドイツの選手は西ドイツへ入国する必要があります。
しかし、当時の東ドイツでは西ドイツへの亡命者が相次いでいました。
故に、選手の亡命を警戒した東ドイツ政府は、
チームのメンバー5人をスパイに命じる
という手段に出ました。
更に、東ドイツからやって来る観戦者1、500人も、
秘密警察シュタージが・・・
逃亡の足枷となる家族がいる人を・・・
意図的に選別した・・・
という秘密裡の工作も行われました。

ところで、西ドイツのキャプテンが先のベッケンバウアーで、カイザー(皇帝)と呼ばれていました。
そして、両チーム共に1次リーグ突破を決めていた中での初対戦となり、世界中が注目しました。
そして、結果は東ドイツの勝利となりました。
ただ、その後に決勝へ勝ち上がり、優勝を果たしたのは西ドイツでした。
そして、西ドイツとの初対戦で決勝ゴールを上げたのが、東ドイツのエースストライカーのユルゲン・シュパールヴァッサーです。
故に、シュパールヴァッサーは東ドイツで国民的英雄となりました。
それと同時に、政府から特別待遇を受け、社会主義体制の顔になりました。
しかし、13年後の1987年に放映された東ドイツのスポーツ番組で、シュパールヴァッサーは話します、、、
シュパールヴァッサー:
『 あのゴールは終わりの始まりでした。 何年もの間、東ドイツのスポーツ番組で放映されました。 西側への挑発としてです。 当時、多くの人が体制に反対していた為、ゴールによって憎悪は更に強まり、私にぶちまけられました。 』

その直後の1988年、シュパールヴァッサーは西ドイツへ亡命しました、、、
【 五月広場の母達 】
1978年、大会はアルゼンチンで開催されました。
ただ、当時のアルゼンチン大統領ホルヘ・ラファエル・ビデラは、
2年前に軍事クーデターによって政権を掌握し・・・
反体制派の弾圧を続けている・・・
という人物でした。
そして、弾圧により姿を消した市民は、3万人に上ると言われています。
そして、ビデラは大会を通じて、
自らの軍事政権の正当性を世界に示す
という思惑を抱いていました。

しかし、開幕戦が始まったスタジアム周辺では、
弾圧で姿を消した子どもを探す母親達が・・・
海外メディアの目に留まり・・・
インタビューを受ける・・・
という事が行われました。
実は、母親達は1年前から大統領官邸前の五月広場で、週に一度、沈黙の抗議を続けて来ました。
故に、アルゼンチン国内では、
五月広場の母達
と呼ばれていました。
そして、一人の母親が話します、、、
母親:
『 領事館、大使館、省庁、教会、あらゆる場所に行きました。 でも、私達の前には全ての場所で扉が閉ざされました。 だから、私達は皆さん(海外メディア)にお願いしています。 皆さんは私達の最後の希望です。 どうか助けて下さい。 どうか私達を助けて下さい。 皆さんだけが、私達の最後の希望なのです! 』

こうして、
母親達の切実かつ痛切な訴えが・・・
世界的な連帯に繋がり・・・
ビデラが隠蔽して来た数々の事件が・・・
世界中に知れ渡る・・・
という流れになりました。
そして、5年後の1983年、国民は団結して軍事政権を打ち負かし、民主政権を打ち立てたアルフォンシンが大統領に就任しました。
その後の1985年、軍事政権に対する裁判が開かれ、ビデラは殺人や誘拐などの罪で終身刑を言い渡されました。
ちなみに、大会はアルゼンチンが初優勝を果たしました。