環境が人を創る事の功罪(光と闇) ~スタンフォード監獄実験&ジキルとハイドより~:後半

ジーキルの残した手紙:
『 私は若い時から無性に快楽を欲して我慢出来ぬのが最大の欠点であった。 一方で偉ぶりたい、公衆の面前では並ならぬ重い威厳を装いたいという高慢な欲求があった。 そこで私は享楽への欲望を隠すようになり、どうしようもない二重生活の深みに落ちていたのである。 』

 

つまり、ジーキルの本性である欲望を求める「悪」、ジーキルはその自分の中の「悪」を人に悟られず楽しむ為に、自分の中の「善」と「悪」を《 分離する 》薬を生み出し「自らで飲んでいた」という事です。

 

ジーキルの残した手紙:
『 (薬を飲んだ後の自分の)醜悪な顔を見ていても嫌悪など感じる事もなく、むしろ歓迎したい気持ちなのだ。 ごく自然で、より人間らしくさえ見える。

 

つまり、原作者のスティーブンソン氏は、自分は「善人」だと世間に見せながら、《 それと同時に 》悪の快楽を心おきなく楽しむ《 偽善者 》をジーキルというキャラクターに《 投影(反映) 》させて描いていたというものでした。
そして、先程の『 「勤勉・禁欲・貞淑」を求めるのが道徳的な《 理想 》とされていた 』当時の風潮に対して、欲望を表すのは「野蛮」であると決めつけ(押しつけ)《 無理に抑え込もうとする 》事の方が、《 上辺(うわべ)だけを取り繕っているだけの「偽善」 》であると批判していました。

 

そして原作の物語では、ジーキルは《 薬なし 》でも度々ハイドに変身してしまうようになり、《 意識までもが 》ハイドに《 乗っ取られる 》ようになっていきました。
実は、この時(この頃)のハイドが国会議員を撲殺したのであり、《 我に返った 》ジーキルはこのままでは破滅が近い事を《 悟り(自覚し) 》、ジーキルとしての意識がある内に毒を飲み、ハイド(という自分の中の悪の人格)もろとも命を絶ったという結末です。
つまり、

 

「 悪 = ハイド 」ではなく・・・「 悪 = ジーキル 」である・・・

 

というのが、この物語でスティーブンソン氏が主張した《 骨子 》となっていました。
ちなみに、私個人的にはある面では、これも原作における「フランケンシュタインの物語」と《 相通ずる 》ものがあるようにも感じておりますが(笑)

 

では、この番組からの紹介もここで終了となりますが、今回の締め括りに入って参ります!

私達は誰もが例外なく、オギャーと産まれた直後は誰かの庇護がなくては生きてはいけません。
そして、例えば幼児と言われる頃合は然り、少なくともその後の成人になる迄の間も経済面なども含め、ここでも誰か(親だけとは限りません)の支えや協力や寄り添いがなければ生きる上では困難な状況になってしまう事でしょう。
つまり、このような時期というのは、

 

大人と子どもの人間関係

 

となります。
そして、大人になった後も、近くは隣近所なども含め、社会という中で生きていく事となり、ここでも同じく、

 

人と人という人間関係

 

の中で生きています。
そして、あくまで私個人としての捉え方であり考える所ではありますが、また、前回のスタンフォード監獄実験を実施したジンバルドー氏との趣旨や意見における違いはありますが、