振り返ってからでは遅い事もある ~イギリス児童移民制度より~

そして1987年7月、先程の新聞報道と時を同じくして、マーガレット氏は児童移民として送られた人々を支援する為の「児童移民トラスト」という団体を設立します。
そして、その聞き取り活動の中で、皆がほぼ同じ疑問を持っていたのが、

 

誰が自分(達)をイギリスから追い出す制度を作り、その権限等を誰が持っていたのか???

 

とのものでした。
その問いに対しマーガレット氏もすぐに答える事が出来なかった為に、当時の慈善団体等に問い合わせを行ったりしていきますが、「記録はもはや存在しない」「元々記録は保存していない」「団体の機密文書だから見せられないし答えられない」などの《 通り一辺倒(紋切り型) 》の回答のみで、また、移民者の中にはイギリス政府及びオーストラリア政府に直接問い合わせる人もいましたが、どちらの政府からも「記録はない」との答えしか返ってきませんでした。

また、マーガレット氏等の活動により児童移民制度の闇が世間の関心を次第に集め始めていましたが、一方では、マーガレット氏の元には脅迫電話が掛かってきたり、抗議の為に家にまで押しかけてくる者まで出始めます。

 

そして、1992年にオーストラリアに滞在中のマーガレット氏の元に差出人の名前が書かれていない不審!?な封筒が届きます。
その中にはオーストラリア政府の公文書のコピーが入っており、それは政府から「記録はない」と回答されてきた政府と児童移民との関わりを示すものであり、1945年1月に開催された児童移民に関する会議を記録した文書でした。

そこには当時のオーストラリア首相の発言として、

 

『 これ(児童移民制度)により3年間に渡り5万人を移住可能にすべく、適格な児童を探し求めるよう提案する。 ヨーロッパでの戦争は多数の孤児・浮浪児を生み出した。 これはオーストラリアが人口を増加させるに当たり比類なき幸運とするものである。 子ども達は移住環境に同化・順応しやすく将来に渡り勤労年数も長いので特に魅力ある種類の移民である。 』

 

と、記録されていました。
そして、マーガレット氏はこの問題は慈善団体等のみならず、国が責任を問われて然るべきものと考えていきます、、、

いわゆる《 (文書の存在を含め)事実の国家ぐるみでの隠蔽であり、国家ぐるみでの児童誘拐 》とまで言えるものとマーガレット氏は考えました、、、

そして、国民等に《 正当な理由等を説明しようがないので、隠蔽するという負のスパイラル 》とも言えると、、、

 

その後の1993年7月にイギリスで児童移民を描いた「リヴァプールを離れて」というテレビドラマが放映され大きな反響を呼び、ついにイギリス政府の責任が議会で追求される事態に《 発展 》していきます。

1993年11月2日、イギリス下院議会で野党からの追及を受ける中、当時の首相(政府)は次のように答弁しました、、、

 

『 オーストラリアなどへの児童移民は民間団体によって運営されていました。 いかなる国でも児童の扱いに関する配慮は子ども達が住んでいる国家の問題です。 』

 

つまり、児童移民の運営は「民間団体の問題」であり、子ども達の扱いは「受け入れ国のオーストラリアの問題」であり、「イギリス政府に責任はない」との《 責任転嫁 》の答弁でした、、、

が、しかし、1998年に議会の下院保健委員会が調査を開始し、『 「戦後児童移民」特別調査委員会報告 』において7千~1万人の子どもがオーストラリアに送られたとの発表を公式にします。
そして、その報告書では、

 

『 児童移民計画に繰り返し見られる特徴はイギリス政府、または送り出し機関による子ども福祉に対する効果的な監視の欠如。 戦後の計画、特にオーストラリアに対する計画は過度に監視が甘かった 』

 

と、政府の監督責任について明確に言及され、そして、このような事態を引き起こしたのが《 既に 》オーストラリアへの児童移民が本格化している中で1948年に制定された「児童法」であると指摘されました。

つまり、この「児童法」というのは《 辻褄合わせの後付け 》で施行され、更に、この法律では内務大臣は民間団体(慈善団体等)が行う児童移民に関し新たに規則を作り統制出来ると規定されていましたが、実際には新たな規則を政府は作らず、いわゆる《 不作為 》という「見て見ぬ振り」や「臭いものに蓋をする」という姿勢、そして、実態上は民間団体へ《 丸投げ 》し続けていた事実も判明しました。
そして、政府(政治家)は自らの票集め、つまり、政治家の《 保身の為に 》慈善団体等の既得権益(子どもを商品としている事)に手を出さなかったとの研究がされているそうです、、、