《 わにの涙 》
『 この言葉を、シェイクスピアも『ヘンリ六世』『オセロ』『アントニーとクレオパトラ』などで、用いているのであるが、これは、わにが涙を流すのを見たという古代の旅行者の記録などに由来し、シェイクスピアは当時の文献に、「もしわにが水ぎわで人を発見するならば、できうれば、これを殺し、しかるのち彼のために泣きつつ、これを食らうであろう」とあるのから借用したものだろうという。
つまり「わにの涙」とは偽善的なそら涙のことで、わには偽善の象徴とされたのである。
これに関連して、「わに論法」という言葉がある。
古代エジプトの伝説に由来するものである。
ナイル河でわにに子供をさらわれた父親(母親ともいう)が子供を返してくれと訴える。
わには「わたしが子供を返すか返さないか、この問いに答えられれば、返してやろう」と答える。
もちろん、わにには子供を返すつもりはなく、もし子供の親が「返して下さるでしょう」と答えれば、子供を食ってしまって「答えが当らなかった」といい、「返さないでしょう」と答えれば、「返すつもりだったが、答えが当らなかったから返せない」といって、どのみち返さずにすまそうというわけである。
そこで「わに論法」とはどちらにもこじつけられる詭弁法を意味する。
誰でもわにの狡(※ ずる)さをにくむであろうが、すこし反省してみると、われわれが日常用いる論理というものも、じつは自分を正当化するためのこじつけが多いようである。
わにがこのようにとかくきびしい評価をうけるのは、その醜怪な外貌に由来するのであろうが、わにからいわせれば、人間の涙や人間の論法もなかなか偽善的で危いということになるかもしれない。 』
数年前には「ご飯論法」なる「詭弁」も登場しましたね(笑)
また、このエピソードにおける視点を派生させると、よく言われる所の、
幸せを遠ざけているのは出来ない理由ばかりを探しているから・・・
なども当てはまって来ます。
そして、「ボールは相手方にある」などの言葉もよく見聞きしたりします。
確かにコミュニケーションにおいては相手の出方を「待つ」なども大切で必要な要素でもあります。
ただ、
相手がキャッチ出来そうなボールを投げたのか???
相手はそのボールを眺めていただけなのか???
もしかしたら相手はボールを逸らしてしまって取りに向かっている最中かも???
そもそも相手はボールが投げられた事を認識して理解出来ているのか???
そもそも(私は)本当にボールを投げたのだろうか???
などなど、ここでもコミュニケーションにおいて何か進まない際には、相手方のみに任せるのではなく、改めて自分自身の姿勢も《 振り返ってみる 》事が大切で必要なケースもあります。
そして、TOPICSでは「(過度な)二者択一に陥らない」ようにとお伝えして来ておりますが、今回のエピソードからは、
(過度な)二者択一でも・・・
選択肢(選択後に何か別の事が起こり得る可能性)があるだけまだ良い・・・
という側面もありますが、このような状況になるのは出来ればご遠慮したいものですね!?(笑)