《 プロクラステスのベッド 》
『 プロクラステスは古代ギリシアの伝説的強盗である。
「引きのばす者」という名前を持つこの怪賊は、アッチカにすんでいたという。
彼は旅人を自分のすみかにおびきよせると、特殊なベッドによこたえ、旅人の背たけが足りないときはこれをひきのばし、逆に長すぎるときは、はみだした頭や足を断り(※ 切り)落とすという残忍な方法で生命をうばったが、のち英雄テセウスに同様の方法で殺された。
この由来からして「プロクラステスのベッド」という言葉は、一般にある絶対的基準を設定して、あらゆる現象を画一的に割り切ってしまう、つまり「型にはめる」ことを意味する。
(中略)
しかし、ながい人類の歴史がわれわれに教えてきたところを考えると、法則とかイデオロギーとかいうものは、すべて多かれ少なかれ「プロクラステスのベッド」ではないだろうか。
それらは、現実そのものの多種多様なニュアンスを捨象(※ しゃしょう:例えば、ある国の中には男性も女性もLGBTQの方も、大人も子どももなど多種多様に存在するが、それらを「国民」との一言で括ってしまうなど)することによって普遍性を獲得する。
そしてそれらの力は、その普遍性をもって逆に現実に働きかけることによって発揮される。
あきらかに、人類の進歩はこうした線に沿って行われた。
しかも、もともと人類の進歩と幸福を念じて為されたあまたの革新(新しい法則、イデオロギーの適用)が、それ自体の目的は達しつつも、他方にかなしむべき犠牲をしいたことがいかに多かったか。
人間はひとりひとりが心の中に「プロクラステスのベッド」を持っているともいえる。
そのことは、われわれに許された大きな特権であるが、同時にまた悲劇的な「業(ごう)」であるかもしれない。 』
これもここ最近では「レッテル貼り」という言葉もよく見聞きするようになりました。
これは、
私達は多面多層な存在
という視点や、「しなやか(さ)」という性質とは真逆なものになります。
言葉を変えると「多様性」の尊重が失われた状態とも言えます。
そして、「業(ごう)」との言葉も出ておりましたが、これも幾度もお伝えしております、
自分のした事は自分に反ってくる
という、このエピソード内でも同じ事が起こっていました(『 のち英雄テセウスに同様の方法で殺された 』)。
そして、「理想と現実」とのテーマも以前に取り上げた事がありましたが、
出発点とするのは「理想」から・・・
とお伝えしておりました。
そして、この3つ目のエピソードで用いられている表現や語彙などは少々難しく感じる面もあった事と思われますが、
自らの軸や芯を確立させていく事も大切で必要
とお伝えして来ておりますが、ここに先程の「しなやか(さ)」を「繋げて」「重ねる」事によって、
真の意味でのポジティブな「思い・言葉・行動」の一貫性を保つ
という事が可能になっていきます。