《 ダモクレスの剣 》
『 ギリシア伝説によると、シチリア島の都市国家シラクサの王デイオニシウスの延臣に、ダモクレスという者がいた。
彼は王の意を迎えんとして、つねに王の幸福をたたえた。
すると、ある日のこと、王はダモクレスにむかっていった。
「おまえがかねてうらやんでやまない王者の座に、一日坐ってみるがよい」
ダモクレスは、王の好遇に感激して、王座についた。
目の前には山海の珍味がならべられている。
ふと天井をみあげると、頭のま上に、一すじの髪でつるされた、鋭利な剣がさがっていた。
ダモクレスの感激はたちまち恐怖とかわり、王座についている間中、生きた心地もなかったという。
この伝説は、いうまでもなく、権力の座というものが、決して見かけほど居心地のよいものではなく、つねに危険に直面している、ということを示している。
スコットランドの民俗学者フレーザーの名著『黄金枝』の中にとりあげられた「死の森の祭司」も、これと似た主題をもつものといえよう。
「死の森」はタブー地域であって、そこへ逃げこんだ奴隷は、奴隷の身分を脱することができる。
ただ、そこにはすでに、やはりかつて奴隷だった「死の森の祭司」がいる。
あとから来た奴隷は、その祭司を殺してみずから祭司にとって代らねば、森にとどまることを許されないのである。
権力の座をめぐる血みどろの闘争を象徴するものとして、まことに恰好(※ かっこう)なモデルといわねばならない。
歴史の流れを通じて、われわれはいかに多くの「死の森の祭司」たちをみることであろう。
ことは政治の世界にかぎらない。
(中略)
なお、合衆国の三十五代大統領ケネディは、かつてその演説の中で、核兵器をたとえて、「人類にとってのダモクレスの剣」といったが、これは人類の運命がボタンのひと押しにかかっている、というような意味で用いたものであろう。
もちろん、核兵器という「剣」の背景には、世界権力をめぐる強国間の巨人的な暗闘があるわけではあるが。
(以下、省略) 』
以前のTOPICSでは、
権力とは幻想である・・・
とお伝えした事もありました。
この意味というのは、
権力を誇示したい(保持したい)者と・・・
権力から生まれる恩恵を自分だけは享受したい者との・・・
共依存から生まれる・・・
という事です。
これは昨今の「忖度」とも同様であり、ここにある《 真の動機 》は相手の気持ちなどを「慮(おもんぱか)る」事とは似て非なるものです。
そして、このような事と同種の言葉として「長いものには巻かれろ」「朱に交われば赤くなる」「人を呪わば穴二つ」「ミイラ取りがミイラになる」なども幾度もコメントして来ました。
そして、何よりも、
人は一人きりでは生きられない・・・
この世に自分一人しか存在していなければ自分自身(自己)ですら認識出来ない・・・
などから、
一人しか存在していなければ・・・
そもそも共依存など起こりようがない・・・
という、何ともお尻の据わりが悪いような、あるいはゲシュタルト崩壊(例えば、同じ漢字をずっと見続けていると、次第に漢字としてのまとまりが分からなくなっていき、部首などがそれぞれ別個のものとして認知され始め、そもそもこれって何ていう字だったけ???のように分からなくなってしまう現象)のような、妙な感覚に陥るかもしれません(笑)
そして、権力というキーワードからは、マスメディア等の役割は権力の監視と言われたりもしますが、もはや「ペンは剣よりも強し」とは「死語」なのかもしれないのと同時に、「死後」に気づいてもどうにもならない、、、というダジャレのような視点も以前にお伝えしておりました(笑)