ヘイトクライムからさえも学べる様々な視点 ~差別と区別を分けるものとは~

では、進めて参りますが、当時22歳の男性が約1年前に起こした京都や名古屋での在日コリアンの関連施設を標的にした連続放火事件の判決が、つい先日の8月30日に京都地方裁判所で言い渡されました。
ちなみに、ちょうどTOPICSの執筆中に被告が期限の9月13日までに控訴しなかった事により懲役4年の実刑判決が確定しました。

そして、この標的の一つとなったのが京都府の宇治市にあるウトロ地区という所であり、この地区では60世帯100人の住民の内、9割の方々が朝鮮半島にご自身のルーツを持っており、多くの在日コリアンの方々が日々の生活を営んでいらっしゃいます。

では、少しだけウトロ地区の《 ストーリー(背景や事情や経緯) 》を眺めて参ります!

 

このウトロ地区が作られたのは1945年の戦争の最中(さなか)であり、当時はその地域に戦闘機を飛び立たせる為の京都飛行場用地として国が空港建設を進めており、その労働力として多くの朝鮮人の方々が集められ、その方々の為の簡易宿舎が置かれたのが現在のウトロ地区でした。

そして終戦を迎えるや空港建設も必要がなくなった事で仕事が失われ、それに対し国(日本)からは何の補償も行われず、この地区に取り残されてしまったが故に水道も無く、トイレも共同であるなどの劣悪な環境の中、養豚などをしながら悪臭にも耐え皆で助け合い生き抜いて来たそうです。

 

しかし、その後もウトロ地区は日本の行政のインフラ整備から長く《 放置 》されて来ました。
例えば、ウトロ地区に入る箇所までしか排水溝が作られなかった(ウトロ地区には排水溝さえ整備されなかった)事で何度も大雨の被害にあったり、1980年代の末まで水道すらも敷かれなかったが為に共同の井戸で水を汲み上げていたりなど。

そして、ウトロ地区に住んで70年になる在日2世の鄭 佑炅 氏(80歳)は通学時の電車賃も払えなくなった事で高校を中退せざるを得なくなり、仕事を探そうにも朝鮮人である事を理由に何度も採用を断られたそうです。
その当時を《 振り返り 》、

 

鄭 氏:
『 (ある会社の)社長さんが「戸籍謄本を持ってこい、お前を使うから」と。

  その時初めて朝鮮人だと言って、そしたら「もう来んでもええわ」と。 』

 

この事について鄭 氏は当時の状況などから、その当時は何も思わなかったと仰っておりましたが、、、

では、《 手始め 》としてここで視点の一つに触れてみます。
日本の勝手な都合で連れて来られ、そして働かされ、日本が敗戦になった途端に見向きもしなくなるとは、例えば《 恩を仇で返す 》や《 手の平返し》などの言葉もありますが、このような事は《 自分がされて嫌な事は他の人にもしてはいけないよ 》などの、《 子どもの頃 》に聞かされ教えられた事と《 本質 》は全く一緒です。

戦中・戦後という《 時代 》の頃ではありますが、皆さんも身の回りを眺めて見た時の《 現在 》では如何でしょうか、、、

 

そして、先程の水道が敷かれたのが1980年代の末というのを《 私自身に当てはめて 》みると、当時の私は高校生の頃になりますが、1990年には湾岸戦争が勃発し、日本は自衛隊の派遣こそしなかったものの、多国籍軍に135億ドル(日本円で約1兆75000億円)ものお金を拠出した(お金だけでしか支援しなかった)などで批判も受けましたが、改めての繰り返しですが、その当時のウトロ地区ではようやく水道が敷かれ始めたという状況です。
しかも、この頃の日本はバブル(景気)というお金が有り余っているような狂騒の最中(さなか)でもありました、、、

 

当時高校生頃の私自身では《 知る由 》も無かったとの《 方便(逃げ口上) 》を使う事も可能かもしれませんが、今回のコロナ禍に限らず《 お金(税金や公金なども含め) 》というのはいつの時代にあっても様々な論評が巻き起こるものですが、そのお金の《 使い方 》などに関しても現代では《 進歩 》していると果たして胸を張って言えるでしょうか、、、

ちなみに、水道と言えば現在では民営化などの問題もあります、、、

では、話を本編に戻して参ります!