種を植え実(花)を結ぶ ~女性差別と司馬遼太郎 氏の義母から~

赤松 氏:
『 これはおかしいんじゃないと思ってね、省全体の人事をやっている所へ押しかけて行ったのね。
  「女性だからって特別にここだけなんていう仕事のさせ方じゃなく、色んな仕事や経験を積ませて欲しい」と言いに行ったんですよ。
  でも、なかなか実現しなくてね。

  《 女性の差別を無くそう 》というのが(自分が配属された部署の)仕事なんだから、内部でそんな差別があったらおかしいんだけど、それだってやっぱりあるんですからね。
  なんとかそれを無くしたい、腹が立つ! 』

 

そして、当時の世の中や社会においては《 男は仕事 女は家庭 》という社会通念が蔓延していましたが、それに対し、

赤松 氏:
『 結婚して新婚旅行なんか済ませて、ホイホイ帰ってきたら、もう椅子も机も無かった
  理屈もヘチマも何にも無いのに、結婚したら女は働かないとなる
  それはちょっとひどいじゃないって、結婚したからってどうして辞めなきゃいけないの? 』

 

と、おそらくこの時もかなりの憤りを感じていたと思われますが、その憤りをエネルギー?に変えてかと思われますが、1967年に官僚(役人)においてはタブー(禁忌事項)とされていた、結婚退職制に関する論文をペンネームで発表していきます!
すると、上司から怒られたそうですが、

赤松 氏:
『 当時の法律や社会制度ってものが女を下に見てるんだ。
  きちんとした法律を作って、女性の差別を無くす為に働きましょう! 』

 

との思いで発表したそうです。
そして、このような動きは世界でも見られるようになり、1975年に国際婦人年世界会議が開催されるなど、女性差別を無くす為の機運が高まり、1979年には国際連合で女子差別撤廃条約が採択される事となっていきます。

ところが、日本がこの条約を批准する(加入する)には国内の法律の整備(条約の求める水準を満たす事)が必要になりました。
そこで、この頃の赤松 氏は婦人少年局長に就任し均等法制定の責任者になり、チャンスが巡ってきました!?

 

それで1982年に労働省で法案作りが開始されていきますが、その為の男女平等法制化準備室では、そこに他の部署から異動になった(男性の)井原文孝 氏は、「男性」の上司から次のように言われたそうです。

井原 氏:
『 男なのに男女平等法なんかやらされて可哀想だな。そういう所に君(井原 氏)を行かせるのは申し訳ないな、可哀想だな」というようなですね、雰囲気、これは本当に(法案が)まとまるのかな?まとまるのは大変だろうな、と思っておりました。 』

 

いわゆる「暗雲」が立ちこめてきたとも言えるかもしれません、、、
そして、その最たるもの?が企業と労働組合の代表が出席する審議会が、大きな壁となって立ちはだかっていきました、、、

と言うのも、この審議会の序盤では、日本経営者団体連盟(日経連)の「男性」の一人が会議の席にすら着こうとせず、

『 私どもはこういった法律の制定そのものに反対ですから、(法律を)作る為の話し合いの席に着くわけにはいきません 』

と言い放ったのです。
その後、ようやく話し合いの席に着くようにはなったものの、遅々として進んでいきませんでした。
そこで赤松 氏は、

赤松 氏:
『 私はここへ(会議の席のみに)座ってたんじゃいけないんだ!
  よし、じゃあ、その根回しとやらを私はやろうじゃないか! 』

 

と、当時を振り返り述べておられ、経済界へ影響力を持つ経営者達への根回しに取り組み始めたそうです。
そこで赤松 氏は、正面から男女平等を訴えても経営者達には通用しないと考え、経営者達が反対出来ないような言葉を用意して立ち向かっていきました。
それは次のようなものだったそうです。