種を植え実(花)を結ぶ ~女性差別と司馬遼太郎 氏の義母から~

【 逆行する日本の現状 】

そこで、一言だけコメントします!

現在、「出入国管理及び難民認定法(入管法)」の改正案が国会に提出されています。

 

ただ、

 

従来から国連人権理事会は・・・

再三に渡り日本(政府)に対し・・・

現行の入管法は国際人権規約に違反している・・・

 

と、指摘し続けていました。

 

 

しかも、今回の改正案に関しても、

 

国連及び難民高等弁務官から、国際的な人権水準に達していない

 

と、指摘され続けています、、、

そして、国内でも更なる「悪法(への改正)」との声が、上がり続けています、、、

 

先日には、スリランカの女性が入管の収容施設で、適切な医療すら受けられず、亡くなった問題(事件)も起こりました。

均等法の制定のキッカケとなったのは、条約批准という「世界が日本を見る目」でした、、、

 

しかし、

 

現状の日本は、当時とは「裏腹」な方向に進んでいる・・・

 

ように、私には感じられます、、、

 

 

では、2つ目の「メタファー(物語や比喩)」に進みます!

 

【 莫連に込められた真意 】

司馬遼太郎 氏(1923~1996年)の著作『 司馬遼太郎が考えたこと3 エッセイ1964.10~1968.8 』(著者:司馬遼太郎、(株)新潮社)があります。

そして、そこに掲載されているエッセイの一つに、《 我が家の莫蓮(ばくれん)女 》(元原稿は昭和41年7月18日「日本読書新聞」第1366号発表)があります。

 

そして、広辞苑(第六版:岩波書店)で「莫連」を調べた所、

 

《 世間ずれして、わるがしこいさま。 また、そういう人。 》

 

となっていました、、、

では、ここから先を眺めた後に、あなたはどのような「考え」や「視点」に辿り着くでしょうか???(笑)

 

 

なお、著作権法上の引用(の範囲内)での紹介という点と、一部「( )」で漢字の読み方を付加しています。

そして、当然ながら、文章に登場する「私」とは、「瀬川」ではなく「司馬 氏」です(笑)

では、始まりです!!!

 

【 「我が家の莫連女」から 】

十二、三年前、職業として薔薇(バラ)をつくっている友人を訪ねると、花を切って花束にしてくれた。

あげる、という。

『 薔薇にも花にも興味がない 』とかえそうとしたが、むりやりに押しつけられた。

 

帰路、こういう活きたものがいたいたしくてたまらず、目をつぶって捨てようかとさえおもったが、たまたま家内の実家に立ちよったのでこの花束を置いてきた

花は黄色かったような気もするし、黒薔薇であったような気もする。

とにかく、それっきり忘れた

ごく最近、妻の両親が相ついで亡くなり、その家は無人になり、末の子が大学を出るまで妻が管理することになった。

 

 

形見分けをもらってきた 』と、ある日、妻がいう。

庭に出てみると、薔薇の木が植えられている。

一ツ株からくろぐろとした樹皮をもった幹(というのか)が十数本も出、薔薇としてはどうみても大木のほうに入るように思われた。

『 面倒だから形見分けはこの薔薇だけにした 』と妻がいう。

 

この薔薇に見覚えがないか。

という意味のことを、彼女はいった。

むろん見覚えなどがあるはずがない

 

『 さあ 』

私は、まるで興味がなかったが、妻の傷手をおもうとそういう顔もできず、ほどほどに首をひねるかっこうだけはした。

 

 

ところがこの薔薇は、十二、三年前、私が薔薇作りの友人からもらったのを、妻の実家に置き捨てていったものだそうである。

妻の母がそれを花瓶にさしておいた。

 

黄色い花だったそうである。

妻の母はひとからきいて、『 これはマリー・アントワネットという品種らしい 』ということも知ったという。

品種の名をきいてから、花に格別なあわれみを覚えたかとも思われる。

なぜならば、彼女は花がしぼんだあと、それを捨てるに忍びず、庭の一隅に挿したからである。

 

亡母の気性から察するに、捨て挿しにしておいて、気のむいたときに水をやる程度だったのであろう。

それがみごとにつき、あるいはよほどその土と相性がよかったのか、数年で瀟叢(しょうそう)をなすというほどにまで枝葉がさかえた

やがてもとの幹が老熟し、とげも蒼然たる古色を帯び、地の主人であるかのような風格さえにおわせはじめた。

 

 

『 それがこれかね 』

いったんはすてた私としては、あまり関心を持ちすぎるのが薔薇に対して不遜なような、申しわけないような、そんな気持ちもあって、家内への儀礼上のぞきこむふりはしたが、しかしすぐ別な雑草に目を移した。

 

多少、そらぞらしい思いもあった。

あのハトロン紙につつまれていたよわよわしい切り花が、これほどの大木にかわっていることを、いますぐ信ぜよといってもむりというものであろう。

 

けなげすぎるのである。

ここまで生命というものがけなげにならなければいけないのかとおもうと、いたいたしくもあり、しかしひるがえって考えると、そんなしんしゃくをはねつけるほどにずうずしくもある。

 

この薔薇は、私の仕事部屋のすぐ前の地面に植えられている。

ことしも、黄色い花をいくつかつけた。

 

 

白楽天の詩だったかに、薔薇をうたったものがある。

独身の少壮官吏である主人公が任地における無聊(ぶりょう)のまま、垣に薔薇を植えた。

薔薇が花をつけ、それが少婦のように可憐である。

その少婦をひそかに愛している、というような詩だったかに思う。

 

すでにわが庭前の薔薇は少婦のようなういういしさはない

手入れがわるいために花も虫食いで、姿も貧相であった。

それだけにマリー・アントワネットのなれの果てという観もあり、浮世の風霜をくぐりぬけてきた莫蓮女のあつかましさという、ひらきなおったたのもしさもある。

 

 

では、エッセイはここで終了です!

 

なお、

 

「無聊(ぶりょう)」は「退屈」

「少婦」は「年若い女性や若い嫁」

 

という意味です。

 

ただ、「瀟叢(しょうそう)」は調べたものの、辿り着けなかった(ネット検索&辞書にも掲載無し)ので、前後の「文脈」から察して下さい(笑)