悪人正機説から考える自立・自律 ~自力本願と他力本願の両方で自らを知る~

この悪人正機説に見られる《 他力本願 》の視点を活用してみますと、

 

私達の誰もが・・・

自らは小さき未熟な存在である・・・

 

という面が炙り出されている感を受け取る事が出来ます。
そして、

 

全ての変化(という成長)の源には・・・

現状を認識する(ひとまず受け入れる)・・・

 

という「姿勢」が出発点となります。
故に、『 小さき未熟な存在 』というのも、自己嫌悪や罪悪感、はたまた、自己憐憫とも全く違うものです。
そして、本年最初の2021年の1月9日のTOPICS『 2021年のキーワード「噴」&「明」 ~「自己矛盾」の活用も~ 』におきましては、「明」の視点を変化させた上で、

 

『 「諦(あきら)める」の「(語)源」は・・・

  「明らかに」究める 』

 

とお伝えしておりますが、これも先ほどの『 現状を認識する(ひとまず受け入れる)・・・ 』と同じ事を表現しております。
そして、《 自力本願 》にせよ《 他力本願 》にせよ、

 

自力本願では・・・

何が「自分」に出来るのか・・・(故に、自分に出来る事を見極め行動に移す)

 

他力本願では・・・

何が「自分」に足りないのか・・・(故に、他の人に協力を仰げる部分を見極めお願いをする)

 

というように、どちらを活用するに当たっても、

 

「自分」を知る(自分を明らかに究める)

 

という面が必須となります。
この事から、やはり、

 

自力本願であっても・・・

他力本願であっても・・・

「(過度な)二者択一」という問題ではない・・・

 

という所にも行き着きます。
そして、仮に全てを《 自力本願 》で行うにせよ、

 

自分一人の力だけでは限界を生じる(制限が掛かる)・・・

 

というのも「事実」でもあり「真実」です。
また、仮に全てを《 他力本願 》で行うにせよ、

 

全てを他の人や何かに委ねきる事は・・・

至難の業である・・・

 

なぜなら・・・

その反映(という結果)を受け取るのは「自分自身」であり・・・

その反映(という結果)を誰かや何かの責任にする事は可能と言えば可能だが・・・

 

結局はその反映(という結果)を「経験」するのは・・・

「自分自身」であるから・・・

 

という事になります
つまり、