悪人正機説から考える自立・自律 ~自力本願と他力本願の両方で自らを知る~

では、先ほどの悪人正機説に戻しますが、ここで、哲学や歴史や宗教等の研究をし、数多くの著書を執筆された梅原 猛 氏の『 梅原 猛の『歎異抄』入門 』((株)プレジデント社)から著作権法上の引用の範囲内において、悪人正機説に触れられている当該箇所の梅原 氏の現代語訳(解釈)をご紹介して参りますので、先ほどの「自立・自律」と絡めて眺めて、そして「考えて」みて下さい!
なぜなら、これも「メタファー(物語や比喩・暗喩)」の格好の素材であるからです(笑)

 

『 善人ですら極楽浄土へ行くことができる、まして悪人は、極楽浄土へ行くのは当然ではないか、私(唯円)はそう思いますが、世間の人は常にその反対のことをいいます

  悪人ですら極楽へ行くことができる、まして善人は、極楽へ行くのは当然ではないかと

  世間の人のいうほうが一応理屈が通っているように見えますが、この説は、本願他力の教えの趣旨に反しています。

 

  と申しますのは、みずから善を励み、自分のつくった善によって極楽往生しようとする人は、おのれの善に誇って、阿弥陀さまにひたすらおすがりしようとする心が欠けていますので、そういう自力の心がある間は、自力の心を捨ててただ阿弥陀さまの名を呼べば救ってやろうとおっしゃった、阿弥陀さまの救済の本来の対象ではないのであります。

  しかし、そういう人といえども、自力の心を改めて、もっぱら他力、すなわち阿弥陀さまのお力におすがりすれば、正真正銘の極楽浄土へ行くことができます。

 

ところが、われらのごとき心の中にさまざまなどす黒い欲望をいっぱい持つ者が、どういう行によってもこの苦悩の世界を逃れることができないでいるのを阿弥陀さまはあわれんで、あの不可思議な願いを起こされたわけですから、もともと阿弥陀さまの願いを起こされるほんとうの意思は、この悪人を成仏させようとするためでありましょうから、自分の中に何らの善も見出さない、ひたすら他力をおたのみするわれらのごとき悪人のほうが、かえってこの救済にあずかるのに最もふさわしい人間なのであります

  だから、善人ですら極楽へ行くことができる、まして悪人は極楽へ行くのは当然ではないかと、なくなった法然聖人が仰せられたのも、深い理由があってのことであります。 』

 

では、紹介はここで終了ですが、如何でしたでしょうか???
難しくもあり、禅問答のようでもあり、「考えれば考えるほど」深みに嵌(は)まっていく!?ような感もあるかもしれませんね(笑)
また、ここでの「悪人」とは、確かに非行(や犯罪)などの振る舞いを犯してしまう人も含まれるのでしょうが、唯円自ら自身の事を「悪人」と称している事からも、この「悪人」の捉え方も様々にある事と思います。

そして、当然ながら私もこの悪人正機説の真意を理解出来ている訳でもありませんし、そもそも、このTOPICSでは様々な素材から「様々な視点の引き出しを増やしてみる」という事が趣意でもありますので、何とな~くの感が掴めていれば、それで充分です(笑)

 

ちなみに、著者たる唯円ですら、『 世間の人のいうほうが《 一応理屈が通っている 》ように見えますが 』・『 阿弥陀さまはあわれんで、あの《 不可思議な願い 》を起こされた 』・『 法然聖人が仰せられたのも、《 深い理由があってのこと 》であります 』というコメントを眺めておりますと、私の浅はかな知識や感じ方においては、実は唯円自身も悪人正機説の真意(ひたすら他力本願に徹底する)に、迷って?悩んで?いるのかな???と思ったりもしてしまいますが(笑)

では、ここから少しだけ、悪人正機説から私なりの独自の視点を展開させてみますので、今少しだけお付き合い下さい(笑)