それが私なりの供養でもある
からです(笑)
そこで、その方を仮にAさんと呼んで少し続けて参ります。
Aさんと私は親類関係ですが、私とは年齢が5~6歳ほど離れており、Aさんは札幌在住という面もあり、私が小さい頃には頻繁に会うというほどではありませんでした。
当時では5~6歳離れていると、小学生高学年と高校生の関係ですので、話をするにも共通の話題がほとんどないというのは、皆さんの幼少期においてもよくあるケースかもしれません(笑)
そのような状況ではありましたが、おそらく十数年は顔を合わせる機会も、話をする場もなく過ぎて行きました。
そうこう時が経過して行く中で、私の母が9年ほど前に病気になった際にお見舞いに来てくれたり、また、その後に母が他界した後にもお線香を上げに来てくれたりして、その際に一緒に飲みに行ったりなどもしながら色々と話をするようになりました(笑)
そして、Aさんのお父さんは50歳半ばで他界しておりますが、そのお酒の席を含め、Aさんは口癖の如く、次のような事をよく話していました。
それは、
『 俺は親父の亡くなった年齢まで生きられないだろうさぁ 』
と。
これは、「今だから」私が思ったり感じたりしている事ではなく、「当時」から「今でも」、このAさんの言葉を聞くにつけ、想い出すにつれ、私の中に湧き出る視点が存在しています。
それは、
人は・・・
自分が思った(考えた)通りの・・・
人間(人生)になる・・・
との言葉です。
勿論、Aさんが予知(予感)めいた事を話していたとも思っておりませんし、Aさんが自ら好き好んで自分自身を追い詰めていったとも考えておりませんし、また、ここには、このTOPICSで幾度かご紹介しております「寿命」(例えば、2019年9月7日の第270回目のTOPICS『 遠隔ヒーリングから考えさせられた「寿命」 ~実例から~ 』など)という視点は、今回は私の中では省いてお伝えしております。
では、私事のお話はこれ位で留めますが、これは余談として書かせて貰います(笑)
先ほど私は「私なりの供養」とコメント致しましたが、きっとAさんは私に、