匿名という二次被害を防ぐには ~憶測が憶測を呼び誹謗中傷という鬱憤晴らしに繋がる~ 

そのほとんどが・・・

匿名である・・・

 

という事です。
中には、誹謗中傷ではなく、意見や思いを述べただけ、というケースもあるかもしれません。
また、新聞などの投書欄においては、匿名というのも見受けられるケースもあります。
このような場合では、誹謗中傷ではなく、

 

理性からの問題提起・・・

 

という側面がありますので、匿名である事で問題が起こる事はほぼありませんし、これは匿名でも構わないかとも思います。
また、ネットなどでは様々な質問に答えるような場合もありますが、これもわざわざ実名を出すのは憚(はばか)られるという思いがあるかと思いますので、あくまでご自身が正しいと感じている情報をお伝えする限りにおいては、これも匿名でも宜しいかとも思います。

しかし、今回のようなケースにおけるネットなどでの匿名は、

 

感情のみで物事を捉え過ぎ・・・

表現が過激になり過ぎる傾向が現れ・・・

時には、そのような過激な表現をしている自分に対して・・・

悦に耽(ふけ)ってしまう・・・

 

という状態になっている怖れが多々あります。
そして、このような匿名においては、

 

自分の発言に責任を取らなくても良い(と思わせている)・・・

 

というのが、更なる拍車を掛ける重大な要素にもなっています。
確かに取材の場などでは「オフレコ」とも呼ばれるように、身を守りながらも問題提起をするキッカケとして機能するケースもあるかもしれませんし、公益通報者保護制度などの活用という観点では、匿名である事が適切に当てはまるケースも確かにある事と思います。
しかし、

 

匿名でしか発言出来ないという事は・・・

自分で自分(の発言)を信頼出来ていない・・・

 

という面を、知らず知らずの内に「強化」しているという点に繋がっていきます。
そして、匿名での誹謗中傷というのは、

 

単なる鬱憤(うっぷん)晴らし・・・

 

でしかありません。
これは、匿名とは言え、

 

多くの人に・・・

「私は」幸せではない!・・・

 

と、わざわざ伝えているのと同じ事です。
つまり、自分は不幸だ!という感情を、自らに絶えず言い聞かせている、という状態と本質は同じです。
そして、そのような事象の中に、

 

他の人を巻き込んではいけないし・・・

他の人を傷付ける事はもってのほかでもあり・・・

何より、そのような事で幸せは感じられない・・・

 

というのが真実であり事実です。
そして、世の中や社会においては、確かにとんでもない行動や発言をする人がいるのも事実ですが(最近は特に顕著になってきてますが・・・)、そのような場合には匿名ではなく、なおかつ、理性を持って自分に自信を持って堂々と考えや意見を伝えると同時に、

 

それにより・・・

その人が変わらないようであれば・・・

放っておく・・・

 

という心掛けも必要になります(なお、この「放っておく」というのは、「無関心」とは違います)。
なぜなら、

 

その人が発した言葉は・・・

必ず・・・

その人に反ってくる・・・

 

からです。
一度出した言葉は引っ込められない、という表現もあります。
つまり、何かの憂さ晴らしなどで、ネットにおける匿名であろうと何であろうと、