人工冬眠が実現したら ~時と縁を信じられるか!?~

【 心境と境遇を共にする 】

この半兵衛の手紙は、1579年(天正7年)4月9日付けのものです。

つまり、半兵衛が病で亡くなる2ヶ月前のもので、病状が悪化する中で書いたと推測されています。

そして、この時、

 

二人は共に絶体絶命な状況に陥っており・・・

同じ心境と境遇を共有していた・・・

 

と言えます。

 

 

更に、まだ一人前に至らない大切な跡取り息子がいたのも、二人の共通点でした。

故に、半兵衛の手紙には、官兵衛の息子である松寿丸の事も書かれていました。

そして、時を同じくして、

 

松寿丸も危機に陥っていた

 

という状況でした。

なぜなら、官兵衛の主君の信長は、村重の城から戻らないのは官兵衛が裏切ったからだと思い込み、

 

松寿丸を殺せと激怒!!!

 

していたからです!

 

そこで、半兵衛は信長に気づかれないように、

 

松寿丸を密かに匿(かくま)り・・・

半兵衛の息子と共に暮らす手はずを整える・・・

 

という行動に出ました。

勿論、裏切り者の子どもを匿った事が信長に知られると、

 

半兵衛もタダでは済まない!!!

 

のは、火を見るより明らかです!

しかも、当初は官兵衛の状況の詳細も定かではなかった事に加え、

 

官兵衛が本当に信長を裏切ったのか否かなど・・・

半兵衛にも事実は不明な中での決断・・・

 

でした。

 

 

しかし、その後も密かに二人の間で手紙のやり取りが重なった事で、お互いに状況と事実が判明していきました。

すると、幽閉中の官兵衛から、願い事を託された手紙が半兵衛に届きました。

そして、願い事は以下の内容でした。

 

《 松寿(丸)の事、懇ろに申し来たり候。 》

 

つまり、官兵衛は息子と再び逢えないと察し、

 

息子を半兵衛に託した

 

という事です。

 

そして、このような二人の手紙のやり取りが、更に重なり続けた事で、先ほどの半兵衛の『 涙をながし候。 』に繋がっていきました。

つまり、半兵衛も死期を悟っていたが故に、

 

二人の想いが・・・

お互いに共鳴した・・・

 

と、考えられています。

 

 

そして、同年(1579年)11月、信長は村重の城を攻略し、官兵衛は救出されました。

そして、裏切り者の誤解も解け、

 

松寿丸と再会を果たす

 

という嬉しい出来事が待っていました。

ただ、この時の半兵衛は、

 

既にこの世を去った後

 

でした。

 

しかし、

 

ここから20年後・・・

二人の絆が歴史を大きく動かす・・・

 

という出来事に繋がっていきます、、、

 

 

【 時空を越えた二人の絆 】

1600年(慶長5年)、

 

黒田家と竹中家の両方の軍旗・・・

半兵衛が治めた菩提山城の麓で共にたなびく・・・

 

という状況にありました。

そして、その麓の地というのが、

 

世に有名な関ヶ原!!!

 

です!

つまり、この天下分け目の決戦の地で、

 

黒田家を率いるのが(幼名)松寿丸こと、黒田長政!!!

竹中家を率いるのが半兵衛の息子、竹中重門!!!

 

という事です!

 

 

そして、関ヶ原は竹中家の領地であった事から、長政が菩提山城の傍らに陣を張ったのも、重門が地の利などを含め、懇ろにサポートしたからと考えられています。

そして、長政が張った陣地の跡地にある石碑には、長政と重門の二人の名前が刻み込まれています。

つまり、

 

特に長政にとっては命の恩人たる半兵衛に加え・・・

更に半兵衛の息子の重門の2代に渡るサポートを得て・・・

二人は同じ東軍の仲間として戦った・・・

 

という事です。

 

そして、長政は東軍の主力中の主力で、西軍の大将の石田三成とも直接戦いました。

そして、この合戦時に長政が身に付けたのが、長方形の壁のような形をした兜でした。

つまり、模したものとは言え、

 

半兵衛の兜

 

という事です。

 

そして、武将にとって、

 

兜は己の魂を表現するものであり・・・

兜を身に付けるのは生死を決する場面・・・

 

という事です。

つまり、長政は、

 

この世の重門のサポートを受け・・・

あの世の半兵衛の想いを受け・・・

 

という事です。

その証として、

 

長政は半兵衛の孫を貰い受け・・・

長政の手元で大切に育て・・・

重臣に抜擢・・・

 

しました。

 

そして、

 

絆を結ぶ為には・・・

その前に縁を大切にする・・・

 

という事が必須です、、、

 

 

では、この番組の紹介も終了し、締め括ります!