人工冬眠が実現したら ~時と縁を信じられるか!?~

【 竹中半兵衛(重治)とは 】

1544年(天文13年)、竹中半兵衛はこの世に生誕しました。

そして、半兵衛に関しては、

 

軍師のイメージが強いものの・・・

当時の史料には記録が一切無い・・・

 

というのが実態です。

 

ところで、江戸時代に創作された豊臣秀吉の伝記『 絵本豊臣勲功記 』には、秀吉が半兵衛を仲間にする為に、3度通った場面が描かれています。

しかし、これは史実ではなく、

 

当時大流行した中国の『 三国志 』がモチーフとなり・・・

秀吉が将軍の劉備玄徳として・・・

半兵衛が軍師の諸葛亮孔明として・・・

描かれたフィクション・・・

 

でした(笑)

ただ、

 

大衆の間で人気を博したが故に・・・

軍師のイメージも定着した!!!

 

という事です!

 

 

ところで、半兵衛は現在の岐阜県の一部を治める武将で、当初は斎藤 氏に従属していました。

そして、現在の所、存在が確認されている半兵衛の自筆の書状は、2つしかありません。

その内の1つが、『 竹中半兵衛禁制状 』です。

そして、この書状には「半兵衛が美濃の稲葉山城近くにある寺の安全を保証する。」と、書かれています。

 

しかし、この種の内容の書状は、本来はその地の統治者が発行すべきもので、稲葉山城の城主は半兵衛の主君の斎藤龍興でした。

更に、当時の出来事を記録している『 明叔録 』では、以下の内容が書かれています。

 

《 半兵衛が稲葉山城を、白昼堂々、奪い取った。 》

 

この時の半兵衛は21歳で、仲間を引き連れて稲葉山城へ向かいました。

そして、いつも通り城内に入った途端、斎藤 氏の家臣を次々と討ち取り始めました。

すると、その光景を目撃した主君の龍興は、恐れを成して稲葉山城から逃走しました。

こうして、半兵衛は稲葉山城の占拠に成功したものの、

 

軍師の如くの智略を駆使したのではなく・・・

武将としての武闘派の一面を覗かせた・・・

 

という事です。

 

 

その後の半兵衛は、織田信長の家臣となりました。

そして、1570年の浅井・朝倉攻めの際には、秀吉と行動を共にしました。

そして、1577年には中国攻めにも参加し、秀吉の出世街道を共に歩み始めました。

しかし、1579年に病を得て、若干36歳で死去します。

 

そして、半兵衛の縁(ゆかり)の地である岐阜県の垂井町に、半兵衛の銅像が建立されています。

その半兵衛の姿は、手には軍配を握りしめ、頭には立派な兜を被っています。

ただ、その兜の形状が普通とは違い、

 

長方形の壁のような形

 

をしています。

そして、この兜が、

 

後の物語に繋がっていく・・・

 

という流れになります、、、

 

 

【 黒田官兵衛(孝高)とは 】

1546年(天文15年)、黒田官兵衛はこの世に生誕しました。

出身は現在の兵庫県に当たる、播磨国です。

 

そして、1577年、秀吉は毛利 氏を打倒する中国攻めを開始しました。

そして、中国に向かう道中にあるのが播磨国でした。

故に、毛利攻めに際し、秀吉には播磨国を利用したい思惑がありました。

 

しかし、秀吉にとっては未知の土地だったが故に、秀吉は官兵衛を頼りました。

これが、官兵衛と秀吉との間に築かれた、

 

最初の縁

 

となりました。

 

そして、官兵衛が特に大きな功績を上げたのが、備中高松城の攻略でした。

備中高松城は敵の侵入を阻む為に、敢えて沼地に築城されたが故に、攻略に難儀していました。

そこで、官兵衛は丹念な調査に取り掛かり、地形を逆手に取って、効率的な水攻めで攻略に成功しました。

 

実は、この水攻めに取り掛かっている最中(さなか)に、

 

本能寺の変で信長が討たれる

 

という出来事が起こりました。

ただ、水攻めが成功したが故に、秀吉と毛利 氏との間でムーズに講和(和睦)が締結されました。

そして、このスムーズな講和(和睦)が実現したからこそ、

 

いわゆる中国大返しの逆転劇で・・・

明智光秀の討伐が可能になった・・・

 

と言われています。

 

 

そして、官兵衛は秀吉に従い「山崎の戦い」「賤ケ岳の戦い」「九州攻め」「小田原攻め」にも参戦しました。

そして、1604年に死去します。

そして、秀吉が官兵衛に宛てた自筆の書状では、以下の内容が書かれています。

 

《 小一郎(秀吉の弟)同然に信頼しています。 》

 

【 二人の絆が生まれる 】

同じく、秀吉が発出した別の書状『 羽柴秀吉書状 』では、以下の内容が書かれています。

 

《 半兵衛と官兵衛が多くの敵を討ち、平定した。 》

 

つまり、二人が共に戦って勝利した事を、秀吉が認めているが故に、

 

二人には繋がりが存在した

 

という事です。

しかし、二人が共に戦ったのは、

 

僅か2年程の短い時間

 

でした。

 

ただ、そのような中、半兵衛から官兵衛の家族へ宛てたと考えられている手紙があります。

そして、先の現存する半兵衛の自筆の書状に関し、

 

2通の内の1通がこの手紙

 

という事です。

 

 

1578年(天正6年)10月、先の毛利攻めに二人は参戦していたものの、苦境に陥りました。

なぜなら、信長の家臣の荒木村重が、毛利側に寝返ったからです。

そこで、官兵衛は村重を説得する為に、村重の城へ乗り込みました。

しかし、

 

説得は失敗し・・・

逆に幽閉される・・・

 

という事態に陥りました。

 

この状況の際に書かれたのが、先の半兵衛が官兵衛の家族に宛てた手紙と考えられています。

そして、官兵衛の身を案じると同時に、家族の心中も思いやるが余り、以下の内容が書かれていました。

 

《 (半兵衛が)涙をながし候。 》

 

 

そして、当時の武将達の様々ある書状の中でも、

 

これほど迄に・・・

感情がストレートに表現されているのは・・・

かなり珍しい・・・

 

と、専門家の間では評されています。