ガンジーを反面教師にする拘(こだわ)りの功罪 ~自律・自立への活用も~

 

【 ガンジーの禁欲生活 】

インド独立という高い《 理想 》を持っていたガンジーですが、プライベートという《 現実 》では弟子達と一緒に暮らし、その場面では《 極端な 》禁欲生活を送るようになります。

 

○ 「食欲の制限」

ガンジーは幼い頃からヒンズー教の教えに従い肉や魚や卵などを禁じ、菜食だけで暮らしていました。

しかし、この姿勢がエスカレートし香辛料も禁じ、味付けは少量の塩だけに留(とど)め、更に口に入れるのは果物のみという事も始めます。

 

○ 「物欲の制限」

ドイツ人の親友と船に乗っていた時、親友が望遠鏡を使うので「理想にふさわしくない」とガンジーが言い、言い争いの末にガンジーは望遠鏡を海に投げ捨ててしまいました(笑)

 

○ 「西洋文明の否定」

工場で活用される様々な機器類、更に鉄道や西洋医学(医療)、そして英語の使用まで批判するようになります。

この頃からガンジーは洋服を脱ぎ捨て、象徴であるチャルカーで紡いだ布を纏(まと)うだけになっていきます、、、

 

○ 「性欲の制限」

子づくり以外の性交渉を禁じ、ガンジー自らも36歳から妻との性交渉を断っていました。

 

このような極端な禁欲生活を送る中、逆に民衆からは「聖人視」されるようになっていきます、、、

 

【 ガンジーの拘(こだわ)りの功罪 】

しかし、ガンジーの極端な禁欲生活は妻と4人の子ども達に《 不幸 》をもたらしていくようになります。

特に長男はガンジーとの関係に苦悩し続けていきます、、、

例えば、父(ガンジー)と同じ弁護士になる夢を持ち、父からも自らの後継者として期待されていましたが、長男には西洋教育を禁止し、弁護士になる為のイギリス留学も禁じます。

ガンジー自らはやって来た事に対し、長男には一切禁じるという状況で父子の対立は深まり、ほぼ絶縁状態になってしまいます。

その後の長男は家を出て事業をするが失敗し借金を抱え、酒に溺れ音信不通になり、住む家も失い、失意のまま亡くなりました、、、

 

 

【 イギリス支配の低下と宗教対立の悲劇 】

1945年に第二次世界大戦が終結しますが、その頃のイギリスは戦争で疲弊し植民地への影響力が低下していました。

この時、ガンジーは長年続いているヒンズー教徒とイスラム教徒の対立を解決しようと行動します!

当時のインドではヒンズー教徒が約7割を占め、イスラム教徒は約2割しかいませんでした。

この状態でインドが独立するとイスラム教徒は少数派になってしまう為、多くのイスラム教徒はイスラム教の指導者であるジンナーを中心に据え、インドから独立し自分達の為の新たな国を作ることを考えます。

 

一方のガンジーは宗教に関係無く一つのインドを目指し、ジンナーとも何度も話し合いをしますが妥協点が見つかりませんでした。

そして、独立運動の指揮を執っていたネルー(インド初代首相)がヒンズー教徒の支持を受ける国民会議派のトップとなります。

ネルーはイスラム教徒との分離はやむを得ないと考え、ガンジーの中道的な立場は非現実だと主張する中、1946年にインド東部のカルカッタで事件が起こります。

この事件により、イスラム教徒が自分達の新たな国作りを求め抗議運動を起こし、ヒンズー教徒との抗争に発展し5千人以上が犠牲となりました。