
【 「チャルカー(糸車)」を象徴として活用 】
ガンジーが独立運動の象徴として活用したのが「チャルカー(糸車)」でした!
と言うのも、これはインド伝統の糸を紡ぐ道具で昔から広く知られていたからです。
この頃のインドはイギリス圏内(大英帝国内)における綿花の一大生産地でした。
しかし、イギリスはインドで産出される綿花を安く買い上げイギリス国内で布を大量生産し、それをインドで高く販売していました。
それが故にインドの綿花産業は衰退し、国の経済も停滞していきます、、、
すると、独立運動に無関心だった一般大衆もチャルカーを使って糸を紡いでイギリスに抵抗姿勢を見せ、イギリス製品の不買運動も始まっていきます。
【 独立運動の中止と求心力の低下 】
1922年にインド北部の町で農民達が暴動を起こし、イギリス側の警察官23人が犠牲となる事件が起こります。
つまり、ガンジーの支持者により、ガンジーの唱える非暴力が《 否定された 》事になりました。
この事件がキッカケとなり、ガンジーは独立運動の中止を宣言します、、、
更に、この宣言により国民会議派の中でガンジーの支持を巡り内紛が起こり、ガンジーの求心力は低下し独立運動も勢いを失います。
このインド内の混乱を契機としてイギリスのインドへの締め付けは更に厳しくなっていきました。
そして、イギリスは1928年のインド憲法改正の会議にインド人を参加させないという仕打ちをします。
この窮地にガンジーは再び立ち上がり新たな運動を開始していきます、、、

【 塩の行進とメデイアの利用 】
1930年3月12日、海まで続く約390キロの道のりを歩き自分達の手で塩を作る「塩の行進」が開始されます!
と言うのも当時、塩はイギリスの専売であり法外な税金が課され、インド人が塩を作ると処罰される状況でした。
塩の行進は仲間78人が同行して始まりますが、当初は何の意味も無いと冷笑や批判も相次ぎます。
そこでガンジーは国内外のメディアに事前に塩の行進の情報を流し、自分達を取材させ注目を集めさせます。
するとインド国内で1万人に迫る民衆が参加し拡大していき、海外でもインドが好意的に受け取られるようになり、世界を巻き込んだ事でイギリスを脅かしていくようになりました。
そして、遂に24日目の夕方に浜辺に到着します!
そして人々は一斉に塩を作り始めますが、これがガンジーが唱えた不当で理不尽な法律への不服従を《 実践した証 》となりました。
イギリスも取り締まりを強めますが、今回の運動はインド全土に波及し数百万人が参加する規模になり、とうとう1931年3月5日にイギリスはインド人による塩の製造を認めます。
この時、ガンジー61歳、、、