心と食の関係性 ~基本は安心ではなく安全&学校給食の誕生からも~

【 学校給食の誕生!!! 】

この意見書で佐伯が強く主張したのが「全ての児童に対して給食を行い、その中に欠食児童も含める」という内容でした。

つまり、欠食児童だけに給食を提供すると劣等感や罪悪感などが生じる怖れもあると考え、

 

子ども達の心への影響を最重要課題に据えた提案

 

でした。

更に先生も子ども達と一緒に食べ、一つの場所で給食を作って近場の複数の小学校に配給するなどの合理化と効率化の仕組みも同時に構築しました。

こうして昭和7年から学校給食が始まり、しかも国の費用で賄(まかな)う事が示されます。

昭和4年に給食を実施していたのは全国で約200校、それが昭和7年には11、000校で38万人、更に昭和8年には12、300校で56万人へと拡大していきます。

 

そして、佐伯の元で学んだ栄養士達が各地の学校に派遣され、地域の実情(食材)を踏まえ献立を考え、子ども達と共に料理し、その子ども達が更に家庭に栄養という知識を持ち帰るという正のスパイラルが確立します。

このような功績により佐伯は世界的にも注目を集め、国際連盟などの会議や講演会に招かれるようになります。

つまり、佐伯は「食は全人類の共通テーマであり、国境などは関係無い」との信念の元に行動に移したという事です。

 

 

【 戦争が破壊した給食 】

しかし、1931年(昭和6年)の満州事変を皮切りに日本は国際社会から徐々に孤立化していきます。

1933年には国際連盟を脱退し、1941年(昭和16年)に太平洋戦争へ突入しますが、開戦の準備の為に前年の1940年に栄養研究所も廃止されてしまいます。

この頃は「贅沢は敵だ」の標語に見て取れるように、栄養は「二の次三の次」とされました、、、

 

【 敗戦と給食の復活 】

昭和20年に極度の食糧不足の中で日本は敗戦を迎えますが、同時にこの年に栄養士が国家資格となります。

と言うのは、この終戦の年にGHQの栄養担当調査をしていたポール・ハウが、戦前から感銘を受けていた佐伯(当時70歳)に相談します。

この時の日本は餓死者が多く、国全体が飢餓状態であった為にGHQにより日本国民の栄養調査が行われます。

 

そして、昭和22年に栄養研究所が再開され、学校給食も再開されました。

その後の昭和34年に佐伯は83歳で他界しますが、飽食の時代の到来を見越していたかのように、当時の人気絶大だったアイスキャンディーを例にあげ、

 

“ 信を胃に失うことなかれ ”

 

つまり、

 

美味しさだけに気を取られるのではなく・・・

真に体が欲する栄養を見失ってはならない・・・

 

との言葉も残していました、、、

では、番組からの紹介はここで終了ですが、現在も世界各地では戦争や内戦が相次いで起こっています。

そして何よりも、

 

一番の被害者は子ども達であり・・・

一番栄養が必要なのも子ども達である・・・

 

という事です、、、

 

 

ちなみに、これも現在は「和食は健康に良い!」と世界中で流行していますが、ここでの和食と「昔の日本食」とは意味合いも性質も全く違う!!!というのは面白い視点かもしれません(笑)