【 世界初の栄養研究所の創設 】
佐伯は1914年(大正3年)に世界初となる栄養に特化した研究所として「栄養研究所」を私費で創設します!
そして、この僅か6年後には国立の研究所となり画期的な研究を様々に発表していきます!
《 研究成果の一例 》
① 「米の研究」:
佐伯は脚気の原因を米の食べ方に見出します。
と言うのも、当時は成人一人あたり1日平均5合の白米を食べていましたが、おかずはとても塩辛い焼き魚一切れと漬物程度という偏食であり、慢性的なビタミン不足に陥っていました。
そこで白米と玄米の間にある「七分搗米(しちぶつきまい)」という食べ方を考案し、あまり受け入れられていなかった玄米を食べやすく、かつ、栄養を最も摂れるものとしました。
② 「献立の開発」:
大正11年に新聞社と提携し「安くて美味いお献立」の記事を毎日掲載していきます。
この記事では1日3食3人分の献立として調理法・タンパク質・カロリー・値段も紹介します。
ちなみに、記事では炒め物の紹介も多かった事で、この頃から日本で「フライパン」が家庭に普及していったそうです(笑)
ただ、食事ばかりを研究する佐伯を科学者や医者は「食い物博士」と称し揶揄していました。
③ 「栄養分析」:
人の呼吸量から基礎代謝を計測し、これを元にして「食品栄養分析表」を作成していきます。
このように様々な研究成果を発表し、1980年に現在の国家資格である「栄養士」を育てる為の栄養学校(現在の佐伯栄養学校)を創設します!
【 パンの活用 】
この頃、凶作で米の値段が高騰していたので、佐伯は子ども達の栄養を考え小麦を使用したパンの製造に取り組みます。
パンの中に魚粉や野菜をすりつぶして入れるなどの工夫を凝らし、数ヶ月から1年程の間で子ども達の栄養状態が改善していきました。
この試みが後の学校給食に繋がっていきます!
しかし、給食を実施する為には幅広い食材集め、大きな厨房施設、更に食材の運搬と調理人の給料など財政課題が山積みであり、しかも、これらの全てを佐伯の自費で賄う必要性がネックとなります、、、
【 関東大震災と欠食児童 】
1923年(大正12年)に関東大震災が発生し、これにより食糧危機が起こり貧困家庭が増加していきます。
佐伯も対策を考えますが、この時の佐伯と政府の考えには大きな開きがありました。
政府の考え : 食料を豊富に保つには先に経済力を高める事が必要(食料より経済を優先する)
佐伯の考え : そこそこのお金(経済力)でも皆が充分な栄養は摂れる
つまり、佐伯の考え方というのは、
経済が豊かになれば栄養が良くなるのではなく・・・
栄養を良くする事で経済も発展させる事が出来る・・・
というものです。
この関東大震災がキッカケとなり「欠食児童」が増加した事で、佐伯は1925年に寄付金を集め欠食児童の救済に乗り出します。
しかし、1931年に起きた北海道と東北地方の冷害で欠食児童が全国規模に拡大し、子ども達は食べる事はおろか、学校にも通えなくなってしまいます。
この時に内務省から相談があり、佐伯は1932年(昭和7年)に「学校給食に関する意見書」を政府に進言します!