オッペンハイマーの生涯から考えるカルマ(業)とグループソウル

一方、この頃の日本では仁科芳雄が学術指導を担った広島と長崎での原爆による影響を記録した2時間40分に渡る映画が制作されますが、この時に仁科芳雄は自分が作ろうとしていた原爆が人間に何をもたらすのかを初めて知ります。

しかし、映画の試写を終えた段階で未編集の他のフィルムと共に全ては米軍に押収されてしまいました、、、

そして、この頃のオッペンハイマーはアメリカの学会で次の事を語っています。

 

オッペンハイマー:
『 皆さんの中には長崎の写真を見て、工場の大きな鉄の梁(はり)がねじ曲げられ、破壊しつくされた様(さま)を見た方もいるでしょう。 焼き殺された人達を、広島の残骸を見た方もいるでしょう。 核兵器は侵略の兵器、奇襲と恐怖の兵器に他なりません。 』

 

その後の1952年にアメリカは新たな核兵器として、広島に投下された原爆の650倍もの規模になる水爆実験を決行し、ここからソ連との核開発競争が始まっていきます、、、

 

 

【 オッペンハイマーへの逆風 】

この時に水爆の開発を推進していたのがローレンスでした。
その業績によりローレンスは再び栄光の座を取り戻し、一方のオッペンハイマーは政府の原子力委員会のアドバイザーの任を果たすと共に、核開発競争への警鐘を鳴らす活動も同時にしていました。

そして、故ルーズベルト大統領夫人であるエレノア・ルーズベルトがインタビュァーを努めたテレビ番組で発言します。

 

エレノア・ルーズベルト:
『 私達はコントロール出来ない兵器を生み出そうとしているのでしょうか? 』

オッペンハイマー:
『 水爆の開発は私達の倫理の根本に関わる問題です。 恐怖のみに駆られれば、この危機の時代を生き抜く事は出来ない。 恐怖を乗り越える答えは歩み寄る勇気ではないでしょうか。 』

 

様々な発言が影響を及ぼし、水爆実験の2年後にオッペンハイマーは原子力委員会から停職処分を受け追放されてしまいます。

更に、その後は家族等を含めた赤狩り(共産主義の壊滅)を受け、それを煽るかの如くローレンスはオッペンハイマーを二度と政策に関与させてはならないとの進言を政府にしていました。

 

そして、1960年9月にオッペンハイマーが日本を訪れた際に「原爆に関わった事を後悔しているか?」と記者に問われると、

オッペンハイマー:
『 後悔はしていない。 それは申し訳ないと思っていない、という事ではない 』

 

 

この日本滞在中には講演を行ったり、湯川秀樹らとの交流をして帰国します。

しかし、広島と長崎の地には訪れ終いでした、、、