オッペンハイマーの生涯から考えるカルマ(業)とグループソウル

【 第二次世界大戦とマンハッタン計画 】

1939年9月にナチスドイツがポーランドに侵攻し第二次世界大戦が勃発します。

翌10月になると第32代アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトの元に手紙が届きます。
その手紙の送り主は相対性理論で有名なアルバート・アインシュタインでした、、、

この時のアインシュタインはユダヤ人迫害が行われていたドイツからアメリカに亡命していて、手紙にはドイツが原爆を作る危険性があるとの警告と共に、ドイツよりも先にアメリカが原爆の開発に着手するよう書かれていました。

 

と言うのも、第二次世界大戦の開戦直前にドイツの研究者達がウラン原子核から莫大なエネルギーを放出する核分裂の現象を発見したと公表していたからです。

こうして1942年の8月からアメリカで極秘となるマンハッタン計画が始まっていきます、、、

 

 

計画には20億ドルの予算が投じられアメリカ各地に研究拠点が創設されていき、多くの科学者達も招集されます。
その科学者達を率いるリーダーとなったのがローレンスでした。

そして、ローレンスは原爆開発の為の巨大装置の建造に取り掛かります。
その工場の周りには働く人達の為だけにオークリッジという町が造られ7万5千人もの人達が住み、映画館やダンスホールやアメリカ最大級の屋外プールなどの施設も整備され豊かな生活が保障されました。

 

しかし、町は有刺鉄線で囲まれ、お互いの仕事の内容は当然ながら、この町で見聞きした事、交わした会話も決して口外しないように言われ、住民達は軍から厳しく監視されていました。

ここでの仕事は細分化されていたので、働いている人達は自分達のしている仕事の目的も意味も一切知らされていなかったというより、知る由もありませんでした。

つまり、住民達は原爆を作らされているとは全く知らなかったという事です、、、

 

【 原爆開発の動機とロスアラモス 】

ローレンスは原爆の燃料となる濃縮ウランの生産を手掛け、原爆本体の設計のリーダーとしてオッペンハイマーを推薦し、その役をオッペンハイマーは自ら進んで引き受けます。

この理由には同胞であるユダヤ人迫害をしているナチスへの怒りがありました。

 

オッペンハイマーの手紙より:
『 このプロジェクトは、これまでの物理学の集大成と言えるだろう。 結果を出せる軍事兵器を戦争に間に合うように作る。 ナチスが存在する以上、やらないわけにはいかない。 』

 

そして、オッペンハイマーは原爆設計の為の秘密研究所ロスアラモスを設立し、科学者そして軍人6千人が集められます。
この町も科学者の両親ですら出入りを許されず、ロスアラモスの関係者としか交流出来ませんでした。

しかし、この頃のオッペンハイマーは大学時代とは人が変わったかのように、部下からの信頼を集める良きリーダーとなっていました。

 

オッペンハイマーの部下の回想より:
『 オッペンハイマーは、よく夢見るような眼差しで、「この戦争は自由の為のかつてない戦いだ」と語った。 この努力はナチスを打倒し、ファシズムを転覆させる為のものだと、心から信じていた。 』

 

この頃ドイツはアメリカに先んじて原爆の開発に着手し、それを主導していたのがハイゼンベルクであり、その事をオッペンハイマーは恐れていました。

 

オッペンハイマーの回想より:
『 私達はドイツの動きを知っていた。 そして原子爆弾の開発が引き分けに持ち込まれでもしたら、何が起こるのかも分かっていた。 』

 

更にアメリカとの戦争に突入していた日本も原爆の開発に乗り出していきます。
その開発を日本軍から託されたのがハイゼンベルクの元で学んでいた仁科芳雄です。

そして、1945年初夏から人類史上初の原爆実験の準備が急ピッチで進められていく中、その時の心境をオッペンハイマーは語っています。

 

オッペンハイマーの回想より:
『 技術的に素晴らしいものを見たら、まずは試してみて、成功させた後に、初めてそれで何を成すかを話し合う。 そういうものだと思います。 原子爆弾が、まさにそうでした。 』

 

しかし、原爆開発が加速する中で1945年5月にナチスドイツが降伏し、ハイゼンベルクも連合国軍の捕虜となります。

そして、この頃は既に日本の敗戦も決定的な状況でした、、、

 

 

では、ここで小休止ですが、ここ迄におけるオッペンハイマーの真の動機は、あくまでナチスドイツへの対抗手段として原爆の開発を手掛けていたという点がポイントになっています!