《 大河の一滴としての自分を見つめて 》より
『 人は生まれながらにして病気を抱えてこの世に登場する。
仏教のほうでは人間はもともと四百四病とともにある、と考えるのだそうだ。
癌やHIV(エイズウイルス)も、いずれは克服される日がくるかもしれない。
しかし、人は死を治すことはできない。
生まれたその日から、日いち日と死という場所へ歩きつづけるのが私たちの人生である。
生きるとは、死への日々の歩みにほかならず、私たちはすべて死のキャリアであり、それが発症しないよう止める手段は永遠にない。 』
《 内なる声を聴くということ 》より
『 そんなわけで、自分のこれまでの生活をふり返ってみると、じつに理屈に合わないことばかりやってきた。
自分の内なる声に忠実に、などといえばキザにきこえそうだが、要するに気がすすまないことはしない、という一点を頑固に守り通して生きてきたのだ。
たとえばレントゲンは撮らない、というようなことである。
注射も自分の体には良くないと思って避けてきた。
検査もしない。
そもそも検査ということ自体が、体にとって歓迎できることとは考えられないのである。
当然、バケガク(化学)的な薬品は体に悪いと考える。
ということは、要するに病院にはできるだけ近づかないように生きるということだ。
そんなこと言ったっておまえさん、歯医者には行ってるだろう、と詰問する友人がいる。
それは仕方がない。
六十代の半ばにさしかかれば、当然のこととして歯はいかれてくる。
人生五十年、というのがむかしの相場だが、まあ、そのへんが人間という存在の耐用限度だろう。
少し下駄をはかせて六十歳くらいが人間の寿命の適当なところではあるまいか。
歯も眼も下半身も、ガタがくるのは自然の理というものだ。 』
《 科学は常に両刃の剣である 》より
『 こういうことを書くのは、本当にひどく気がひけることである。
不幸にして病に冒され、深刻な闘病生活のなかで必死に生きていらっしゃるかたがたには、傲慢不遜な物言いのように受け取られても仕方がない。
しかし私は、必要のない人びとが病院に押しかけたり、自立心を欠いた患者たちが事あるごとに医師や薬に頼ろうとすることにイチャモンをつけているのだ。
ちょっと風邪気味だったり、すこし疲労がたまったり、それほどでもない不定愁訴を感じたりすると、そのたびごとに治療を受け、注射を頼み、薬をもらおうとする安易さが気にくわないのである。
よく言われる大病院での三時間待ち三分診療などという話は、まだいいほうだ。
ある国立病院の医師が自分の仕事ぶりをチェックしてみたところ、ひとりの患者に二分平均しかさいていないことがわかって、そのことを嘆いている文章を読んだことがあった。
これもあまりに多くの市民が気軽に病院に押しかけるからだと私は思う。
本当に仕方がないときしか病院に行かない、それが大事なことなのだ。
医師の世話になるのはギリギリのときだ。
やむをえず、仕方がないから診察を受け、医療の世話になるのだという考えかたに立つべきなのである。
さらにいわせてもらえば、むやみやたらと科学や医学に頼るな、ということだ。
科学は常に両刃の剣である。
医学や技術の進歩によって救われた命と、それによって失われた命と、はたしてどちらが多いか。
私は五分五分だと感じている。
医学が作り出す病気もまた少なくないのである。
そのことを統計的に証明せよ、と言われても、私にはそれをする気はない。
統計や数字もまた現代の大きな病のひとつだと感じるからだ。
数字は正直だが、それを扱うのは問題だらけの人間たちではないか。
文明の利器と称されるもので、凶器と化す可能性が皆無なものがあったら教えてもらいたいものだ。 』
う~ん、アンジェリーナ・ジョリー氏と五木 氏とでは、ある意味では「両極端」とも言えるのかもしれないし、だからと言って「両者の気持ち」のどちらも分かるような自分がいる気もするなぁ、、、
これも、やはり「過ぎたるは猶及ばざるが如し」や「帯に短したすきに長し」という視点かな???
それもありそうだけれど、アンジェリーナ・ジョリー氏と五木 氏のどちらかを選ばなければならないという訳ではないし、「(過度な)二者択一」に陥らないという視点なのかな???(笑)
ん!?そう言えば、これも想い出した!