もしコロナ禍にヒトラー(のような存在)が現れたら ~嗅覚を磨く~

【 見て見ぬ振り 】

ある女性:
『 強制収容所という《 言葉 》はベルリンでは知られていました。 そんな《 言葉 》は聞いた事がなかったと言う人がいれば、それは《 嘘 》です。 何が起きているかも薄々《 気づいて 》いました。 酷い事が起きていると。 』

 

そして、何故、声を上げなかったのか?と問われ:
『 《 今 》だから「何故、何も言わなかったのか?」と《 問う 》事が出来るのです。 おそらく《 恐怖 》からです。 』

 

 

【 敗戦間近の他者任せ 】

敗戦間近の状況になると、ヒトラーは演説やスピーチを「他者任せ」するケースが多くなりました。

その理由は、スターリングラード攻防戦で大敗北を喫した事と言われます。

 

では、敗戦間近に関する「(時代)背景」の「証言」を眺めます!

 

【 目を背ける 】

当時の敗戦間近の状況を問われた男性:
『 果たして彼(ヒトラー)は本当に《 不可侵 》なのだろうかという《 問い 》は、全く頭に浮かびませんでした。 《 考えたならば 》、私達のヒトラー像は《 揺らいだ 》でしょう。 でも、ヒトラーは《 テーマ 》になりませんでした。 』

 

【 責任転嫁 】

ある男性:
 《 憎悪 》の念が膨らみました。 イギリスとアメリカへの《 敵意 》。 ああも《 人間 》を破壊し尽くすのかと。 』

 

そして、ヒトラーやナチスに対する疑問を問われ:
『 ありませんでした。 逆に「 この戦争は勝たねばならない 」という思いが強くなりました。 《 他の選択 》はありません。 「 総統が命じ、我々は従う 」のです。 』

 

 

そして、1945年1月30日、ヒトラーはラジオで最後の演説をしました。

そして、その3ケ月後に拳銃自殺を遂げ、その1週間後にドイツは降伏しました、、、

 

【 見ている景色は違う 】

降伏後に強制収容所の映像を見せられた男性:
『 彼ら(アメリカ)がこの映像を私達に見せたのは、「 おお、私達はナチスの元でこのような事をしてしまったのか! 」そう《 理解させ学ばせる 》為だったでしょう。 だが、私にはそのように《 考えた 》記憶がありません 』

 

なぜ、そのような記憶が無いのか?と問われ:
『 当時は《 自分の事 》として《 考えなかった 》のです。 「 お前達が自ら選んだ政権により行われた事だ。 従ってお前達にも責任がある。 」という《 理解 》をする事も出来たはずです。 それが《 本来のメッセージ 》ですが、全く(自分には)《 届かなかった 》。 「 酷い映像だ、以上 」(それだけ)。 』

 

 

ここ迄の内容を「時の経過」と共に眺めて来ましたが、この狭間にも、ある出来事が発生していました。

それは「証言」の一番最初に登場した、18歳の時にナチスの党大会に参加した男性に関するものです、、、

 

彼は海のヒトラー・ユーゲントの一員でした。

しかし、彼が16歳の時、

 

突如として「ユダヤ野郎」と仲間から罵られる

 

という出来事が起こりました。

 

父に理由を尋ねると、彼は養子であり、ユダヤ人ではありませんでした。

しかも、家族では父だけがユダヤ人の血を引いていました。

しかし、父はヒトラーを支持する愛国主義者でした、、、

 

 

その後の彼は労働奉仕団に所属しました。

そして、代表として党大会に選抜されました。

なぜなら、彼は身長が高く、金髪で、青い目の持ち主という、

 

ヒトラーの考える「理想のドイツ人」の・・・

「外見(見た目)」だった・・・

 

からです。

そして、この時の経験について、彼は次の通り話します、、、

 

『 18歳の《 若者 》にとっては鳥肌が立つ経験でした。 全ての《 雰囲気 》が鳥肌ものでした。 音楽で例えるならベートーヴェンの第9交響曲の《 終楽章 》のようでした。 とにかく《 素晴らしい 》経験でした。 世界に冠たる “ 大ドイツ ” の《 一部 》に自分もなれたと思いました。 』

 

しかし、ここ迄の流れは、

 

ヒトラーが国民をコントロールする為の手段

 

に過ぎませんでした。

 

その後、彼は徴兵され、空軍に入隊しました。

一方、彼の父は強制収容所に送られました。

そこで、彼は嘆願書を送った所、父は1ケ月後に強制収容所から戻って来たものの、彼は次の通り話します、、、

 

『 父は全くの《 別人 》になっていました。 元はユーモアに満ち、冗談を言う人で、ポジティブな思考のドイツ国家主義者でした。 すっかり《 萎縮 》し、髪は刈られ、威厳のある口ひげも剃られていました。 何より《 精神的に破壊 》されていました。

  《 言葉 》も発せず、強制収容所での様子を聞いても《 答えて 》くれません。 《 批判 》の言葉もありません。 すっかり《 内向的 》になっていました。

  彼にとって《 一つの世界が崩壊 》したのでしょう。 その1年後に父は亡くなりましたが、私の知る限り、ただの一度も《 家を出ません 》でした。 』

 

 

父を廃人にされ、ヒトラーに対する思いに変化は無かったのかと問われ、彼は次の通り話します、、、

 

『 私の家族の運命。 特にユダヤ人である父への扱いが理由で、私がナチスに対して敵愾心を抱いたと想像されているようですが、それを私は《 認める 》事が出来ません。 父が連行されたのは、何かの《 間違い 》だったと私は《 考え 》ました。

  実際、父は4週間で戻って来ました。 これで間違いが解消されたと私は《 思い込み 》ました。

  私の嘆願書の効果だという《 思い込み 》です。 ナチスに対しては、何の《 疑問 》も抱きませんでした。 』

 

では、視点を切り替え、少しだけ私の体験談を伝えます!