理性を進化させる学びを続け・・・人(霊)への進化へと進んでいる・・・そして、この進化は魂の観点として・・・
とも言われています。
ペットの躾(しつけ)などでは、ままならない点もありながらも、ちゃんと家族の一員としてのルールに従う事も出来るし、
何より・・・飼い主への愛情を示す・・・
というのは、ペットを飼われた経験がある方、そして、現在ペットを飼われている方であれば、容易に実感しやすい事と思われます(笑)
そして、このような事から「ペットロス症候群」というのが起こるのも理解出来るかと思われます。
では、ここで動物に関するスピリチュアルな視点をお伝え致しますが、動物と一括(くく)りに言っても、そこではやはり、人と接する機会の多い犬や猫などと、金魚やザリガニなどにおいては、進化の過程という意味での「差異」は生じます。
そして、ペットとして飼われている犬や猫などの場合では、
犬や猫が他界しても・・・この世への執着がほとんどないため・・・つまり、本能の部分が勝(まさ)っているため・・・この世に留まる事はほとんどない・・・
しかし、
愛情ある飼い主が他界した際は・・・ちゃんとあの世で待っていて・・・逢いに来てくれる・・・
と言われています。
そして、
飼われていた当時の想い出や感情・・・そして、あの世での再会などの経験を通じて・・・人(霊)への進化を学んでいる・・・
とも言われています。
そして、ここで一つの疑問が湧いてくるかもしれません?
それは、
源が同じ魂の存在を「食べる」対象としても良いものなのか?
というものです。
現在では科学の発展なども目覚ましいものがありますが、古来の人と現在の人においても、
何かを「食する」事で人としての生命を維持し、それが故に、様々な体験を学び通す事が出来る
という点は変わらずに一緒です。
もしかしたら、かなり未来では、人であっても何も食する必要性も無くなるのかもしれませんが(笑)
つまり、鉱物においても、建物などの様々な原料として加工されていますし、牛や豚や鳥、お魚、そして、野菜なども全ては生命であるという点では皆同じです。
そして、なかなか適切な表現は難しいですが、
食されるという事も含め、それぞれの魂としての進化の過程に組み込まれている・・・
そして、組み込まれている部分の多くに「本能」も関与している・・・
という捉え方もなされています。
それが故に、日本では食事をする際に、
(生命を)頂きます
との教え方もされておりますし、人としての生命維持や体験という学びの観点からも、食するに必要な点は致し方ないとしても、不要な乱獲などは人の側が考えなければならない学びの一環ともなります。
また、日本では鯨を食したりしていましたが、韓国では犬を食べますし、中国ではもっと多彩な食というものもあります。
つまり、
文化によって食するものにも違いが生じるのが当たり前であり・・・
同じ生命という観点からは、食べて良い生命、食べてはいけない生命という区別はない・・・
という点に行き着きますが、
現在の人の世界では、「食」という観点のみでも、自らの文化のみを正当化し、他国の文化を否定しようとする
という傾向も多々見受けられます。
それが故に、「理性」が勝(まさ)っている人同士の間では、まずもって、人同士を食べ合うという行為は行われていません・・・
そして、最初に「改めて私達「人間」という「魂」を知る・考えるキッカケへ・・・」とお伝え致しましたが、
人は万物の長
とも言われたりしています。
しかし、この本来の意味は、